黒パン俘虜記1-7

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 五月一日が来た。帝国側の督励と、収容所側の協力で、すべての予定作業は前日に終った。新しいビルディングが十も建ち、道路や広場は美しく整備され、中央の銅像は今にも馬が動き出しそうに見事だった。
 当日は朝から花火の音が町の中にひびきわたり、祝砲が轟《とどろ》いていた。町の人々は、多分、全員が新しい服を着、赤い旗を持って広場に集まったことだろう。そこには昨日まで蟻の列のように地べたに這《は》いつくばって労働していた、汚れてやせこけた異国の奴隷たちの姿は一人も見えなかった。
 そのころぼくら労働者は、この国に来て初めて、労働から解放され、大半は泥のように眠っていた。ときどき風にのって、演説の声や、革命歌らしい歌声、音楽など、かすかに聞こえてきた。
 二カ月前に小政が約束した、五月一日には白パンが一本支給されるという話を、思い出した者も何人かいた。しかしこういうおいしい話は、大体当日がくれば、帰還のデマと一緒で、消えてしまうものだと諦めてしまった人の方が多い。それに思い出しても口に出すものはいなかった。うっかりあてにして、やっぱり駄目と知ったときが惨めであった。
 それでも昼近くになると、どこからともなく嬉しい情報が宿舎中に流れてきた。正午にスープが特別支給されるらしい。それには肉も野菜も入っているとのことだ。
 それは半分は事実であった。炊事から臨時集合の鐘が鳴り、当番は張りきって出かけた。
 しかし多少の肉はすべて新幹部たちの祝宴用に回され、人々に支給されたのは、葉っぱが二、三枚浮んだ塩の汁だけだった。祝日の特別献立が、腹にたまらない塩汁だけと知ったとき人々は言葉にいいあらわせない失望を味わった。これではもう一つの、この国の管理者の約束、明日からの一週間の休みなど、とてもあてにできないと決った。
 汁をすすり終ると、またすぐに眠った。
 今眠っておかなければ、いつまた、眠りたいだけ眠れるか分らない。一分一秒をかみしめて眠った。
 翌日の七時には、やはり作業出発の鐘が鳴り、人々は寝台から叩き起された。白パンと同様、一週間の休みも、幻にすぎなかった。ただいつもの五時でなく、七時であったのだけが、せめてもの救いであった。
 朝の通りはもとの静かな町に戻っていた。その日の、労働者たちにあたえられた仕事は、式典で散らかされた会場の後片付けであった。道路に出た人々は、大変な発見をした。
 建物に吊された赤い布、人々が持ち歩いた赤い旗が、大通りのいたるところに散乱していた。その上には、白や銀の絵具で、この帝国の異様な文字が書かれていたが、布はともかく布であった。
 人々は皆声を上げると、歩哨の制止もきかず、その地上の富を拾い上げようとした。九月になれば、夏も秋も一緒に終り、すぐにまたあの怖しい酷寒の日がやってくる。そのときになったら足に巻いて靴下代りにして凍傷を防ぎ、腰に巻いて冷えこみを防ごう。補給がないから、もう褌《ふんどし》も、すりきれて無くなっている。細く切って股に通して赤褌と粋《いき》にしゃれることもできる。
 歩哨がびっくりして怒鳴り、威嚇の弾丸が耳もとをかすめても、拾うのをやめようとする者は一人もいなかった。ぼくもまた列から飛び出し、仲間をかきわけて、腰に巻きこめるだけの布と、褌にできる細さの赤旗を四本拾いこんだ。耳もとに飛ぶ弾丸より、これから来る酷寒の方がずっと怖しかった。
 その日の夕食の後、収穫物をたたみ直しながら、久しぶりに心豊かな気分になった。そしてひょいと、今年もまたきびしい仕事の間にいつのまにか、誕生日がすぎてしまっていたことに気がついた。
 そこでぼくは明日の定例五日目の伺候演芸『映画講談』には、自分の心祝いをかねて、二十一歳の思い出になるよう、とっておきのジャン・ギャバンの名作『望郷《ペペルモコ》』を心行くまで語ってみようときめた。
 身の危険を知りながらも、カスバを出て港まで追ってきたギャバンが、おりから出て行く船に乗っている女の名を、鉄格子に掴《つか》まって必死に呼ぶが、汽笛に妨げられて声が届かない。諦めた彼が、自分を裏切った現地人の女のもとに戻るよりはと、ナイフで自殺する。
 このラストシーンではきっと全員を泣かせてやれるだろう。女の名が汽笛とぶつかって消えるところをどう表現しようかと何度も口の中で練習しながら、ぼくは、今日の収穫の赤い布を、私物袋の奥に大事にしまいこんでいた。
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