兎の眼26

  26 流 れ 星

 
 
 足立先生のハンストは、あちこちからさまざまな反響を呼んだ。子どもが登校を拒否するという事件は全国的にときどきある。しかし、その子どもに同情して、ハンストをおこなったという先生は、ちょっと例がない。
 
 近ごろめずらしい先生だと好意的にみる人もいる反面、そういうぶっそうな教師がいるから世の中が乱れるという人もいた。教育委員会も動機が動機だけに、あつかいにこまっているようであった。
 
 足立先生はただだまって、ハンストをつづけていた。なにかを考えているような顔でもあり、苦痛にたえているような顔でもあった。そばを通っていく人びとは、ものめずらしく足立先生を見た。いたましそうに顔をくもらせる人もいた。
 
 小谷先生かられんらくがあった。こんどの運動に、「処理所の子どもを支援する親の会」という名まえがついたことと署名は予想以上にふえていることなど、メモに走り書きしてあった。足立先生のハンストはおかあさんたちにもたいへんショックをあたえています、とつけ加えてあった。
 
 過半数になれば、採決された決議文をひっくりかえすこともできる。足立先生はそのメモを読んで、ちょっと顔をほころばせた。そして、ぼそっとした声でいった。
 
「てんぷら、くいたいなあ」
 
 そのころ、学校でちょっとしたことがおこっていた。
 
 二時間め、村野先生が教室にはいっていくと、浩二がすわっていたのだ。
 
「あらっ」
 
 村野先生はおどろいた。転校していった浩二だったので、どうしてそこにいるのかよくわからなかったのだ。
 
「どうしたの浩二くん」
 
 浩二はだまって勉強道具を机の中に入れた。
 
「浩二くん、あなた勉強しにきたの」
 
「うん」と浩二はうなずいた。
 
「あなた埋立地から歩いてきたの」
 
「うん」
 
 村野先生はまたびっくりした。埋立地から歩いてきたのだったら、浩二の足で一時間はかかっているはずだ。
 
「おとうさんやおかあさんは知っているの」
 
「………」
 
 浩二はだまっていた。
 
 浩二は自分ひとりの考えで、この学校にきたのだ。
 
「浩二くん、あなた、学校をかわったのよ。あたらしい学校にいかなくちゃ……」
 
 そうはいったが、さすがに村野先生は浩二の気持を考えると、強いことがいえなかった。浩二は五時間めまで、ちゃんと授業をうけた。
 
 村野先生は、五時間めがすんでから浩二にいった。
 
「浩二くん、あしたから新しい学校にいくんですよ。いいこと。先生も浩二くんと別れるのはさびしいのだけれど、これは学校どうしのたいせつなお約束なんだから。ね」
 
 浩二は下を向いていた。
 
 村野先生はかわいそうになって、浩二の頭をなでてやった。
 
 学校がひけると、浩二はかけた。ちょっとうれしそうな顔をして、処理所の方へどんどんかけた。
 
 人のけはいがしたので、足立先生がふりむくと、浩二がにこにこ笑って立っていた。
 
「おう、浩二」
 
 足立先生は思わず手をさし出した。
 
 ふふふ……と浩二は笑って、どんと足立先生に体あたりをくらわした。腹がへって、よろよろの足立先生はひとたまりもなくひっくりかえって、浩二の下敷きになった。ふたりはとっ組みあって笑いころげた。
 
「浩二、なんや、それ」
 
 足立先生は浩二のカバンを見てたずねた。
 
「学校へいってん」
 
「学校って、姫松小学校へか」
 
「うん」
 
「そうか、おまえもがんばるなァ」
 
 足立先生はしみじみいった。
 
 浩二は処理所の中へかけこんでいった。浩二はホームランを打った野球選手のように、からだ中、あちこちたたかれながら、大歓迎をうけた。
 
 浩二についてきた足立先生はそのようすをたのもしそうにながめていうのだった。
 
「おまえたちが大きくなったら、どんな世の中になるやろなァ」
 
 浩二は夕方まで処理所で遊んでいた。日が沈むと浩二はしょんぼりした。浩二がなにを考えているのか、子どもたちにはよくわかった。
 
「浩二、かえるか」
 
 功は、浩二をはげますようにいった。
 
「うん」と浩二は元気がない。
 
「送っていってやるワ、な、みんな」
 
「うん、送ってやる」
 
 子どもたちは浩二を中心にして、いっせいにかけだした。浩二を送っていくと、かえりはまっ暗になる。浩二の気持を思うと、みんなそんなことにかまっていられない。
 
 子どもたちはかけた。商店街をぬけ、車の多い国道をよこ切った。子どもたちは歌をうたいながら、秋のトンボのようにかけた。空はあかね色だった。
 
 埋立地と旧市内を結ぶ大橋までくると、子どもたちはひと息いれた。太っている芳吉は、はあはあいっている。
 
 海から吹いてくる風は、ほてったからだにここちよい。はしけのゆききが、墨でかいた絵のようだ。
 
「いこか」
 
 功がみんなにいった。
 
「よっしゃ」とみんなはいせいよく返事をして、ふたたびかけだした。
 
 埋立地にはいると、そこは砂ばくのように広かった。
 
「わあーい」
 
 子どもたちは、声をかぎりにさけんだ。
 
「ひーろーいーなあー」
 
「うーみーみーたーいーやあー」
 
「みんなーこおーえんにーせえー」
 
 子どもたちは顔を見あわせて笑った。
 
 そして、また、かけた。
 
 浩二の家では、母親が半分泣きだしそうな顔をして浩二のかえりをまっていた。
 
 浩二の顔を見ると、こわい顔をして思わず立ちあがった。
 
「おばちゃん、浩二をおこったらあかん」
 
 功が窓から首をつきだして大声でどなった。つぎつぎと首が出て、
 
「おばちゃん、おこったらあかん」
 
 と口ぐちにいった。
 
「あんたら浩二を送ってきてくれたの」
 
「うん」
 
「これから、処理所へかえるんかい」
 
「そうや」
 
 さすがに浩二をしかれなくなったようだ。
 
「おっちゃん」
 
 功は浩二の父親に話しかけた。
 
「浩二、きょう姫松小学校へいったんやで」
 
「えっ」
 
 浩二の両親は顔を見あわせた。
 
「ほんとか浩二」
 
「ほんとや。あしたもいく」
 
 浩二はきっぱりといった。
 
「おっちゃん、浩ちゃんをよそへやらんとって」
 
 恵子は浩二の父親の眼をじっと見ていった。
 
「そうか、浩二は姫松小学校へいったんか」
 
 浩二の父親はひとりごとをいうようにつぶやいた。その声に元気はなかった。
 
「浩二、かえるで」
 
「浩ちゃん、さいなら」
 
「浩二、バイバイ」
 
 子どもたちは口ぐちにいった。
 
 浩二はどんぐり眼をいっそう大きくさせて笑った。そして、力いっぱい手をふった。
 
 浩二の父親は、下を向いてなにごとか考えているふうだった。
 
 その日、小谷先生たちもいそがしかった。足立先生がハンストをやっているのだから、ゆっくり運動をつづけるわけにはいかないのだ。
 
 だれがいいだしたのかネズミ算式運動といいはじめた。ネズミ算というのを広《こう》辞《じ》苑《えん》という辞書でひいてみると、つぎのようにかいてある。
 
(正月にオスメス二匹のネズミが十二匹の子を生み、二月には親子いずれも十二匹の子を生み、毎月かくして十二月にいたれば、ネズミの数は二百七十六億八千二百五十七万四千四百二匹の大数になる、というような算術の問題)
 
 つまり、ひとりのさんせい者が生まれたら、そのさんせい者がつぎのさんせい者を求めて運動をおこすというやり方である。なるほどこれなら運動の広がりははやい。
 
 処理所の子どもたちの立場をわかってもらうだけではたりないのです。立場をわかってもらえたら、つぎの人に話しかけてほしい、と運動に加わった母親たちは訴えた。
 
 そして、ちえおくれの子を仲間にしていった小谷学級の話をして、わたしたちも小谷学級の子どもに学ぼうと話をむすんだ。
 
 共かせぎのために、子どものめんどうをみてやれないという悩みをもっている親たち、子どものできがわるいので、学校に行かないという親たちもすぐ仲間になってくれた。
 
 いろいろな家庭があり、いろいろな親がいたのである。参観日や総会にやってくる親だけが、親ではなかった。小谷先生たちは、そのことを学校にかえって話した。
 
 すこしずつだったが、署名をとってくれる先生がふえだした。親の方から、さいそくをされてあわてて署名にまわった先生もいた。
 
 足立先生、もうすこしのしんぼうですよ、たくさんのおかあさんたちがわたしたちの味方になってくださったのよ、小谷先生は心の中でつぶやきながら、夜おそくまで、かけずりまわっていた。
 
 秋は深い、夜になると冷えてくる。
 
 足立先生は毛布にくるまって、ぼんやり空をながめていた。こんな都会でも、空気のつめたいときには星がきれいだ。
 
 さきほど処理所の親たちがきて話しこんでいった。かれらはいつのころからか、もうしわけないということばを足立先生の前にださなくなった。
 
 そんな他人ぎょうぎなことをいうのは、それこそ、もうしわけないと思っているのだ。
 
「きょうは流れ星が多いなァ」
 
 足立先生はそんなことをぼんやり思った。
 
 コツコツとへいをたたく音がした。
 
「先生、もうだれもおらへんか」
 
「功か、おらん」
 
「そんなら、そっちへいく」
 
 しばらくして子どもたちは出てきた。それぞれ足立先生のまわりに、すわったりねころんだり、勝手気ままなしせいになってくつろいだ。
 
「寒いで」と足立先生はとがめるようにいった。
 
「さっき、ごはんをたべたばっかりやから……」
 
 徳治はいいかけて、あわてて口をつぐんだ。
 
「気にするな徳治」
 
 足立先生はよわよわしく笑った。
 
「浩二を送ってやったで」と功がいった。
 
「そうか、ごくろうさん」
 
「先生、しんどいか」
 
 純がおそるおそるという感じでいった。
 
「うん、苦しい」と足立先生は眼をつむった。
 
 子どもたちはどうしていいのかわからない、じっと足立先生の顔を見た。
 
「いま、空を見とったら流れ星がいきよった」
 
 足立先生はぽっつりといった。
 
「あの晩も流れ星が多かった」
 
「あの晩いうて」
 
「先生が生まれてはじめてドロボーした晩や」
 
「先生がドロボーしたの」
 
 足立先生の前にしゃがみこんでいたみさえはびっくりしていった。
 
「いまみたいに腹がへって死にそうなときに先生はドロボーをした。みさえ、びっくりしたか」
 
「うん」
 
 みさえはこっくりうなずいた。
 
 ははは……と足立先生は小さく笑った。
 
「むりもない」
 
 足立先生はみさえの頭をなでた。
 
「一日に親ユビくらいのじゃがいもが五つ、ごはんはそれだけやねんで」
 
「おなかへったやろ」
 
「いまみたいに、腹がへって苦しゅうて苦しゅうてかなわんかったナ。先生にもおにいちゃんがおった。みさえのおにいちゃんみたいにええおにいちゃんやった」
 
 純はちょっとてれた。
 
「先生はそのおにいちゃんとふたりでドロボーにはいった。こっそり倉庫にしのんで大豆やトーモロコシをぬすんだ。こわかったなあ。ドロボーはなん回やっても恐ろしいなァ」
 
「そんなになん回もしたんか」
 
 四郎がかすれたような声でたずねた。
 
「先生はドロボーが恐ろしゅうて恐ろしゅうてかなわんかった。だから、四、五回でやめてしもた。先生のおにいちゃんはドロボーが平気やった。なん回もなん回もドロボーしたんやな。きょうだいが七人もいたからツバメがえさをはこぶようになん回もなん回もドロボーをしたんやな」
 
「おまわりさんにつかまらへんかったんか」
 
「つかまったで。なん回もつかまった。けど、なん回もドロボーした。先生のおにいちゃんはとうとう少年院におくられることになってしもうた」
 
 子どもたちは恐ろしそうな顔をした。
 
「その日、先生のおにいちゃんは死んだ」
 
 足立先生があまりあっさりいったので、子どもたちはしばらくその意味をとりかねていた。
 
「先生のおにいちゃんは、みさえのおにいちゃんみたいに本を読むのが好きやった。死んだとき、文庫本の『シートンの動物記』がボロボロになってポケットにはいっとった。なん回も読んだんやろなァ」
 
 足立先生は遠いところを見るような眼をした。
 
「ドロボーして平気な人間はおらんわいな。先生は一生後悔するような勘ちがいをしとったんや。先生はおにいちゃんの命をたべとったんや。先生はおにいちゃんの命をたべて大きくなったんや」
 
 子どもたちはしーんとしている。
 
「先生だけやない。いまの人はみんな人間の命を食べて生きている。戦争で死んだ人の命をたべて生きている。戦争に反対して殺された人の命をたべて生きている。平気で命を食べている人がいる。苦しそうに命をたべている人もいる」
 
 足立先生はそういってまた眼をとじた。
 
「先生のおにいちゃんがかわいそうや」
 
 みさえがしくしく泣きだした。
 
 足立先生はやさしくみさえをだきしめた。
 
「みさえは心のきれいないい子やな。ほら見てごらん。また流れ星がながれた。あの星は先生のおにいちゃんや。みさえのように心のきれいな先生のおにいちゃんや」
 
 子どもたちはみんな空をあおいだ。
 
 星は、ぬれた魚の眼のようにいとしく光って天にはりついていた。
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