上杉謙信62

 一手切《いつてぎり》

 
 
 すでにわずかでも、鉄砲の影響があらわれ出した川中島の接戦では、当然、陣形の編成にも、それより前の陣組とは、備え立てがちがって来ている。
 大体、鉄砲隊をまっさきに置き、次に弓隊、長柄隊、武者——という四段立てが常識となっていた。
 そして、ふつうには、敵とのあいだ二、三町から、鉄砲隊が撃ちはじめる。
 この距離では、弾はまだ届かないのであるが、武者声が、押太鼓と同じように、気勢を昂《あ》げる目的にまず撃つのである。
 四、五十間になると、着弾が可能になる。旺《さかん》に撃ち合う。
 と、いっても、弾込《たまご》めや、銃《つつ》の掃除に、暇がかかるので、鉄砲組もおよそ、三列三交代ぐらいになって、撃っては、うしろへ退き、次の列に、装填《そうてん》して待っているのが代って前へ進んでは撃つ。そしてまた退く——という方法をとっていた。
 そして、半町以内にまで迫りあうと、こんどは弓隊が、雨の如く矢を送る。
 さらに十間と迫り、七間、五間と詰合ったとき、初めて長柄隊か槍隊かが突撃を開始し、ここに白兵戦となるのであるが、この際、二の手の戦法といって、急貝、早太鼓を打鳴らせば、足軽も士分も、すべて無二無三、敵中へ飛込んで、太刀、槍、無手、道具や戦法によらず、勝ちを制し、敵を圧す、いわゆる乱軍の状態に入《はい》るのである。
 だが、九月十日、この朝の、川中島の緒戦では、こういう戦法の常則が、甚だしくちがっていた。
 なぜならば、甲軍の方では、敵が車掛りに来たと察知したので、定則以上にも厳密な堅陣をもって押したのであるが、謙信はかねがね、
(このたびこそ)
 と期していたことであり、その戦法も、常識にとらわるるなく、
(一手切《いつてぎり》に戦って、勝敗を瞬時に決せん)
 とは、すでに諸大将や左右の旗本たちへも、断言していた方針であった。
 一手切の決戦とは、つまり二の手なしということである。四段の備えも、緒戦《しよせん》もない。緒戦からして直ちに決戦に入らんという素裸捨身の戦いを目がけたのだった。
 その真っ先に立ったのが柿崎和泉守の隊だった。
 大《おお》蕪菁《かぶら》の馬簾《ばれん》を揉んで急襲し、左右から本庄越前守、山吉《やまよし》孫二郎、色部修理、安田治部などが喚《おめ》きかかる形をとった。
 驚くべきことは、主将謙信そのものは、柿崎隊のすぐ二の陣にあったことである。
 前側の味方が敵へ当って散開すれば、すぐにも謙信のいる位置は、敵の前に露出してしまう。大胆とも何ともいいようはない。
「かくまでに」——とは、信玄も思えなかった。謀将山本勘介、原隼人などの叡智でも察しきれなかった。——で、甲軍は形のごとく、重厚堅密な布陣をもってし、まずその前列に布いた鉄砲組から、敵の旋回陣へむかって、鉄砲の射撃を開始したのであるが、上杉方から早鉦《はやがね》が鳴り、喊《とき》の声が沸くやいな、
「一手切ぞっ。——踏み返すな、うしろは、一歩も!」
 大将謙信みずから、こう呼ばわりながら、その馬前に高々と、赤地に龍と書いてある——懸《かか》り乱《みだ》れの旗を、
「かかれっ。かかれっ」
 と、大声疾呼の下に、竿も折れよ、旗も裂けよとばかり、打振り打振り、励ましていた。
 懸り乱れの龍旗というのは、上杉家のうちで突貫の旗とも呼ばれている決死旗である。この旗の振られたときは、旗の下で、全軍は直ちに、一死のほか何ものも無しの宣誓をしたことになる。たとえいかなる敵の強圧にぶつかろうが、一歩でも怯《ひる》み、半歩でも退いたときは、ふたたび人中に士《さむらい》として面を出すことはできない——としてあるのが上杉家の家中にある廉恥《れんち》の精神——恥を恥とする士風のひとつだった。
分享到:
赞(0)