上杉謙信60

 達 観

 
 
「御陣形変えのお布令ですっ」
「陣立更えですぞっ」
 百足《むかで》の旗さし物を背にさした騎馬武者が幾人も、味方の諸部隊へ馳けわかれて、その陣地陣地へ、火のつくように告げていた。
「山県殿《やまがたどの》の御手は、先陣のまっただ中に押進み、白桔梗《しろききよう》のお旗を目じるしに立てよとの軍令です」
「武田典厩信繁どの、また穴山玄蕃どの御人数は、山県どのが白桔梗の御旗を見て、その左陣に」
「右陣には、諸角豊後《もろずみぶんご》どの。内藤修理昌豊《ないとうしゆりまさとよ》どの」
「御中央に信玄公、旗本衆」
「次いで左脇の備え。原隼人どの。武田逍遥軒様」
「右脇には、武田太郎義信様。望月甚八郎どの。——また後陣《ごじん》としては、跡部大炊介どの、今福浄閑斎どの、浅利式部少輔どの……」
 忙しげに、高らかに、また急に、彼方《かなた》此方《こなた》で百足隊の伝令たちが、こう告げわたり馳け廻りしているまに、はや先陣山県三郎兵衛の隊、その他の部隊が、峡《かい》を出る雲のように動き出したが——時すでに遅かったといえる。
 もう謙信のすさまじい輪形陣の流動は、すぐ目の前まで接近していたのである。
 その接近法は、いわゆる突入直撃式でない。巨大な鉄鎖《てつさ》の連環《れんかん》がたえまなく旋《めぐ》り旋り近づいて来るので、戦闘力の鋭角はどこにあるかといえば、そうしているまに敵の先陣と体当りした所がすぐそのまま鋭角となるものだった。
 いまやその一端と一端とが、互いにどこかで触れ合ったらしい。
 まだ、武田方としては、全陣形の立直しに、確《しか》と、足場も定まらないうちにである。
 当然、一部の陣地に、混乱があらわれかけた。
 しまったと、信玄もここは血の逆流する思いがしたろう。それかあらぬか、彼のいる幕囲《かこい》に近いところから、突如として、大太鼓の音が、勇壮な階調をもって、つづけさまに鳴りとどろいた。
 が——戦闘要意である。
 なおまだ、遮二無二攻勢にかかれという押太鼓の音ではなかった。
「御使番《おつかいばん》、御使番!」
 そのそばで、旗本たちが呼びたてていた。山本道鬼や原隼人なども、みな各自の持場へ急ぎ帰って、もうここには姿のなかった後である。
「ハッ。お召で」
 百足《むかで》旗の者が二、三名かけこんできた。誰《たれ》の眼といい唇といい顔色といい、もう平常のものではない。
「重ねての御命だ! 先陣左右各隊とも、持場持場をかたく怺《こら》えて、徒《いたずら》にも陣地を出ず、かりそめにも退かれな。ただよく敵の猛撃をその位置において死守応戦せられよ、とある。急いで諸所の大将へ触れられい」
 本陣からの再度の命令をうけると、伝令はまた思い思いに背の百足旗を翻《ひるがえ》して走り去った。
 彼が太鼓を用いたので、此方はわざと鉦《かね》を用いたものだともいう。
 いずれにせよ、いまや明らかに、相互の敵を相互に見た。眼に、耳に、足の先に、総毛立つ全身の毛穴に。
 いつか。空には、陽がのぼっている。
 陽の位置でみると、時刻はちょうど朝の卯《う》の下刻(午前七時)ごろかと思われる。霧はまだ霽《は》れきらないが乳白色に透明を帯《お》び、湯けむりのように乱流騰下《とうか》してその膜の薄いところへかかると、川中島いちめんから、犀川千曲はいうまでもなく、遠い妙高、黒姫の連山にいたるまで、明るくて朧《おぼろ》なすがたを浮き出させた。
「近いぞ。もう近いぞ」
「四、五十間」
「いや、三十間ほどしかない」
 先陣のまたその最も前方に這《は》い屈《かが》んでいるのは、山県三郎兵衛麾下の一小隊の鉄砲組だった。
「……まだ。まだだぞ」
 弾薬を装填《そうてん》して、わずかの窪地の蔭から、銃口を敵へ擬しながらも、距離を考えて、容易には放たなかった。
「二十間まで待て。思いきって、近寄せろ」
 組頭だろう。後《あと》からいう。
 狙《ねら》いすましたまま、構えている銃手にとっては、実に長い。
 そうしている間も、ちょっと油断すると、秋草のしとどな露に、火縄は消してしまうし、弾薬は湿《し》めらしてしまう。
「まだで?」
「いかん」
 当時の鉄砲の射程内は、およそ三十間どまりといわれているが、それも精いっぱいに届いた弾では、鎧《よろい》の草摺《くさずり》や革胴《かわどう》から撥ね返されてしまうのだ。弾もまた三匁から七匁ぐらいな鉛丸《なまりだま》を、漸く三発も撃てればよい方で、後は筒の関金《せきがね》や薬筒の焦《や》けついた部分などを掃除しないと使えない。
 このように厄介な物だったが、なおかつ、これは近年の戦場にすがたを出したばかりの最新鋭武器であった。財力的に豊かな甲州勢といえど、また文化的に鋭感な謙信といえど、漸くその全軍に百挺足らずか百二、三十しか持ち得なかったものである。
 従って、その一発には、
「あだには撃たぬぞ」
 という気がまえと、
「同じ仆すなら大将分を」
 と、的《まと》にも大物好みを抱いていた。
 たしかに従来の弓よりは的確に望みが遂げられた。——で鉄砲頭は弓頭以上、緒戦の功を欠いては御主君に相済まないと考えている。わずか二、三十名の銃口を預かっているのであるが、これが全軍の戦色に影響するところはもちろん大きいからである。
 ——足音。足音。——敵の足音までがはや耳にひびいてきた。
 むらむらうごき旋《まわ》るのは、上杉勢の人影ばかりではない。霧の濃淡も、怖ろしい勢いで渦まいている。そして陽の光が透して来るたびに、何か無数なものが、霧の裏でキラキラ光る。
 上杉家で有名な長柄隊だ。大太刀に柄のついたような獲物を持った荒武者である。——と思うまに、その廻旋列《かいせんれつ》は眼の前を激流の如くよぎり去って、忽ちべつな一隊があらわれている。閃々晃々《せんせんこうこう》、夕立のように足踏み揃えて迫らんとして来る槍ぶすまの一縦隊であった。
「——撃てッ」
 鉄砲頭《てつぽうがしら》の開いた口が、腹いっぱいな声を出した。
 どどんっ! ばん! ずどん!
 不ぞろいな音響だった。強薬《ごうやく》の加減だの湿り弾なども交じっているせいである。二十幾挺かの銃身中に、不発だったのも五、六挺はあった。
 しかしこの鈍い音響も、また途端にばくとして揚がった弾煙《たまけむり》の匂いも、甲冑の武者の血を猛ぶらすには充分なものだった。敵とも味方ともつかず、およそ二十五、六間ほどな双方の間隔から、わあっという喊声《かんせい》がいちどに揚がって、天地の朝を震《ふる》わせた。
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