上杉謙信59

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 百足《むかで》の旗々

 
 
 これは余談だし、ずっと後の事でもあるが、織田信長が桶狭間《おけはざま》で義元の中軍へ突撃したときでも、その営中に斬り入るまでは義元の居どころは的確に知れなかったのである。あなたこなた姿をさがすうちに、溜塗《ためぬり》の美々しい輿《こし》があったので、初めて、ここと信念され、信長の部下たちは一層勇気づいて功を競い合ったというほどである。
 そのほかにも、人いちばい要心ぶかい信玄には、八人の影武者があったなどともいい伝えがあるが、それまでにはどうあろうか。しかし、家康や信長などの陣中生活を見ても、本陣には名代《みようだい》を置いて、自分はひそかに前線の先手《さきて》に立ち交じって直接に下知をしていたというような例はいくらもあるから、信玄にしても、常備八人の影武者はどうか分らないが、名代を用いた場合などは屡《しばしば》あったものと観て大過はなかろうと思う。
 それとまた「車掛り」の陣形そのものの効果にも疑問説がある。けれど山鹿素行《やまがそこう》の兵書によると、
車ガカリハ敵方ノ備ヘ立テ三段四段ナルニ用フレバ功大ナリ。コレハ小車トハ曰フ。サレド大車ニ用ヒ、敵備ヘ十段十一段トナリテハ利アラズ。
 とあるのを考え合せると、輪形陣の価値は十分認めているが、相手の備え如何によることを強調している。この説に反対して、車掛りを否定している論者には、同時代の荻生《おぎゆう》徂徠《そらい》などがある。徂徠は、武田方のこの時の陣形はいわゆる魚鱗十二段の重厚な構えであるから、謙信が車掛りを用いるわけはないというような点を強弁している。
 けれど、陣形というものは、常に変化をふくんでいるもので、虚即実《きよそくじつ》であり、正即奇である。いつでも早速に相変化転《そうへんけてん》するのが陣形の本質で、鶴翼《かくよく》でも蛇形《だけい》でも鳥雲《ちよううん》の陣でも、そのままに固執《こしつ》したりするのでは、死陣であって活陣ではない。
 ——車掛り!
 と、信玄が直感したせつなに、信玄が、原隼人正へ向って疾く疾くと味方の諸部隊へ伝令を急がせたのは、いうまでもなくそれに対する「変」を直ちに命じたのである。
 しかもこの場合、いささか信玄の面にも慌て気味のあらわれたわけは、この瞬間まで、彼は自分が、
(越後勢の機先を衝《つ》いている)
 と、信念していたものだった。妻女山へ奇襲攻撃隊を向けていることといい、ここに陣取って、それに依る敵の崩れを待ちぶせている要撃陣といい、すべて先手《せんて》を取ってさしている将棋として局面を観《み》ていたのである。
 ところが。
 その立場は逆転して来た。
 謙信はすでに、迷いなく、ここへ邁進《まいしん》して来つつあるのに信玄は、事態の直前に、味方の布陣を更《か》えなければならないという必要に——つまり後手《ごて》に立たされてしまったのである。
 若輩《じやくはい》謙信に、いやしくも用兵の神智と技術において、この一手を見事出鼻にさし込まれた信玄としては、その老練な分別や、最後の必勝を信念しても、人間的に、
「小さかしき謙信の振舞」
 と、感情を怒らせずにはいられなかった。その分なら目にもの見せてくれるぞ——との覇気《はき》に満々たらざるを得なかったのである。
 
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