上杉謙信55

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 鎧える親

 
 
 武者は、唖か聾のように、何の反応もあらわさない。釣瓶を離した。その手に水桶を提げた。もう黙然と先へ歩いてゆく。
「……もしっ!」
 彼女は、縁を駈け下りた。というよりも転げ落ちた。
 とたんに、足の腫《はれ》も痛みも彼女になかった。水桶を提げて杉木立の小道を彼方へ行く、武者に追いすがって、
「お、お父上様ではございませんか。あなた様は甲州のお旗本、初鹿野伝右衛門様でございましょうが」
「ちがう」
「いいえ、ちがいません」
「ちがう、ちがう」
「でも、鎧の胸当《むねあて》にある御紋は、初鹿野家の抱茗荷《だきみようが》の御紋です」
「抱茗荷は他家にもある」
「無いと記憶《お ぼ》えておりまする。甲府の家を離れてもまだ四、五年の年月しか経ちません。家の御紋を忘れてどうしましょう」
「何者だ、そちは」
「鶴菜でございまする。父上さま。その御眼《おまな》ざしや、お声だけでも、実の子には分ります。なぜ、鶴菜かと仰っしゃっては下さいませんか」
「知らぬ」
「むごい仰せです。まだ年も十四の頃、お父上に伴われ、善光寺に詣でた途中、にわかに厳しいおいいつけをうけ、甲州の御為《おんため》じゃ、主君への忠義じゃ、汝を捨てる、越後へ拾われて行けと、わたくしの身は、世話人の手にかかり、春日山のお旗本黒川大隅さまの家へ奉公にやられました。……そしてお別れ申すとき、お父上から懇々《こんこん》申しつけられたとおりを守って上杉家の出来事、御城下のうごき、御家中の取沙汰など、絶えず事細《ことこま》やかに、お文を以て甲府へ密報しておりました……。それなのに」
 どこかで、弾音《つつおと》がした。ぐわうんと、音波は広い野を縫い、霧を揺すり、ここの木立までを貫《つらぬ》いてくる。
「離せっ。ここをどこと思う」
 伝右衛門は脚をあげた。
 鶴菜の背へ桶の水がかかった。わがむすめよりは、その水のほうが、遥かに大切であるかのごとく初鹿野伝右衛門は見向きもせず、杉の木の間を駈け去った。
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