上杉謙信46

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 献言百諫

 
 
 直江大和守実綱は、謙信の父祖以来三代に歴任して来た宿将中の宿将である。
 彼の才幹と忠節は、諸人のみな認めていたところである。謙信の信愛もただならないものがあった。にもかかわらず、このたびの出陣以後には、まだ曾《かつ》て一度も、この元老の献言にも耳を仮《か》したためしがない。また、特に諮《はか》ろうともしないのであった。
 大和守に対してすらそうであるから、他の諸将にはなおさらのこと何の評議も求めていない。しかも一日一日、ここの危地は陣地として最悪な条件を加えている。一日停まれば一日の危機が深まるといってもいい。一万三千の生命《いのち》が、いま飢えるか、ここに墓石を積むかにまで、現実は迫っていた。
「——抑《そもそも》ここの御進退を、如何あそばすお心にございましょうか。日頃の御豪気、御雄胆など臣等《しんら》のいささかもお疑い申しあげる仕儀にはござりませぬが、既に、何よりは御携帯の兵糧が、いまは全く尽きておりまする今日……」
「その事か」
 と、謙信は至極手軽に、
「その儀に就いてなれば、疾《と》くここに陣した初めに、呉々申し渡してある。謙信に何ら策無し、無策を以て策とする、虚白《きよはく》、無縫《むほう》の体。そんな事、何度もいう要はない。ただ一言でも悟り得いでか」
 と、いつにない叱り方だった。
「はいっ……」と、恐懼《きようく》しながらも、こう主従顔のそろった絶好な機を逃《のが》すまいとするものの如く、大和守は喰いさがって、
「畏《おそ》れながら、わが殿の大腹中、いのちを一つと誓い参らす臣等として、分らいで如何いたしましょう。——さはいえ、敵の信玄は、去《い》ぬる後月《あとつき》の二十四日以後、海津の城に入って、悉皆《しつかい》戦備をととのえ、糧《かて》を満たし、万全を期してなお動かず、飽くまで、お味方を長陣に倦《う》ませ、ひとたび虚あらば、電撃一挺、必勝の勝目を見て事を果さんものと、いわゆる満を持して機を計るの自重をかたく持っておりまする。——顧みて、お味方を案ずるに、今となって、善光寺方面より兵糧の運輸を計らんにも、途中、武田勢の奇襲あるは必定。また、それらの通路も遮断されて、御本国との書状の往来すらままならぬことは先にも度々申しあげてある通りです。かくて、穀糧はいうに及ばず、士卒はもう死馬を喰い、木の皮を煮、じっと、お旗本のうごくまではと、弱音もふかず頑張っておりまするが——かかる敢なき我慢がどれほど続くものではありませぬ。——何とぞ御賢慮一変、いまのうちに、何らかの御善処を仰ぎたく、われら寄り寄りにこの数日は、その事のみ心痛にたえず、実は打揃って、おねがいに罷り出んかと私議いたしていたところでござりました」
「それ程にか。……はてさて、誰も彼も、じっとはしておられぬ性分とみゆる。——ならば訊ねてみよう。汝らの考えから先にいえ。いったいここをどうしたら勝目がつくと申すのか」
「われわれの愚存では、すでにこの妻女山の御陣は深入りに過ぎ、敵の大軍が、海津に拠り、諸道を占《し》めた今日となっては、はや変ずるに至難となりましたものの、なお、今のうちなれば、万策無きこともないかに思われまする」
「奇をとって変ずべしとか」
「さればです。ここに萎縮《いしゆく》し、乏《とぼ》しき粮米《ろうまい》を喰い細らせてあるよりは、むしろ堂々、正攻法を取って、海津の城お取詰あそばし、諸道の敵の散軍を、個々撃滅なされたほうが、遥かに、御栄誉ある戦と考えまするが」
「いやいや、海津を攻めるほどならば、信玄が甲府を出ぬうちに攻める。それすら、彼もし驟雨の如く来て、甲府の大兵いちどに後詰《ごづめ》せば、味方必敗のかたちに墜《お》ち入るべしと、さし控えていた謙信が、何を今更、そのような暴戦を敢て選ぼうぞ」
「それも不利、また無謀との御意なれば、このたびの御出陣は、足ならしの儀にとどめ、一応御帰陣あって、また来春を期し、改めて御発向《ごはつこう》あそばされては如何でござりますか」
「左様な意志はない」
「かかる儀は、やや取越し苦労にすぎるやも知れませぬが、武田方の軍勢はお味方の二倍、その一部を、海津にとどめ、あとの勢を以て、突如に越後領へ駆け入り、万が一にも御本城春日山を取巻きなどいたした場合には……」
「あははは。さもあらばあれ、おもしろき戦《いくさ》になろう。信玄越後へ攻入らば、謙信もまたたくまに甲府を席巻し、彼の甲館《こうかん》へ乗入らんこといと易い業《わざ》だ。——しかもわが春日山の留守には、なお二万の兵と、一年の矢玉は蓄えてある。何の何の、あの賢《さか》しらの信玄が、左様な目先の見えぬことをするものか」
 いつか、陽は沈みかけている。陣幕《とばり》のうちははや黄昏《たそがれ》めいた。寒々と落日のこぼれてくる時雨雲の下に、諸将はみな霽《は》れない眉をして立ち上がった。謙信のことばは遂に、その日もわれに策なしに尽きていた。——そしていつか人声もなくなった陣中には、二ヵ所の篝火と揺らぐ夕闇と、時折、木の葉が雨かのように降る微《かす》かな音しかしなかった。
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