黒田如水54

 捨児の城

 
 ひとつの人生でも、一貫する戦争でも順調のみには行かない。必ず逆境が伴う。いや逆境はいつも順調の中にあるといってもよい。秀吉の逆境は、このころから始まった。顧《かえり》みるとここまでの彼はたしかに順調だった。中国探題《たんだい》に任ぜられ、西征総司令官として、意のままに機略を振うことができたのである。
 ところが、織田信忠が西下し、附随する丹羽、明智、佐久間、滝川などの諸大将がそれを扶《たす》け、作戦の根本方針も、安土の直令に依って、一変されて来るに至っては、彼の命令や意図も前のようには行われなくなってしまった。何事もまず、信忠を奉じなければならないし、その信忠の帷幕《いばく》にある諸大将はみな秀吉を見るにまだ一個の「成り上がり者」を以てし「あの猿が」を口癖に出す先輩たちであった。
 従って信忠も、父信長のようには、彼を重んじなかった。三木城攻囲軍の本陣は、秀吉の営にはなくて、いつのまにか信忠のいるところに移っていた。——で、彼がむなしく上月城の後詰を捨てて引揚げて来ると、信忠はすぐ彼に対して、
「お汝《こと》の手勢は、但馬へ入って、但馬に散在する別所の与党を掃討《そうとう》して来い」
 と、いいつけた。
 信忠はまだ二十幾歳という若大将である。こう単純なのもむりはない。秀吉はにこにこ笑いながら命を奉じて、
「はい、はい。畏《かしこ》まりました」
 と即日、但馬へ再出発した。もちろん彼をして、こんな一部隊的な任に赴かせた命令は、信忠の意志というよりは、その帷幕にある佐久間、丹羽、滝川あたりの宿将たちから出たものであることはあまりにも分明だった。
「いかに信忠卿の命なりといえ、このような心外な沙汰を何で唯々《いい》とおひきうけ遊ばしたか」
 と、秀吉の麾下《きか》にも不穏な声はあったが、竹中半兵衛が固く軍令して、
「非をいい立てるなかれ。軍中において、是非を鳴らすはそもそも、第一の不手柄者ぞ」
 と、戒めたので、将士はようやくその不満をべつな方に向けて、掃討に立った。
 但馬に散在する小敵の一掃は約一ヵ月で終った。もう七月に入っていた。僻地《へきち》山間の悪戦を続けたこの四十日ばかりの間に、秀吉以下、部将たちの顔も、真っ黒に陽焦《ひや》けしていた。いくら山野に臥《ふ》しても、炎熱下の行車に焦かれても、依然、昼顔の花のように白く見えるのは、竹中半兵衛の面である。半兵衛の病勢はとみに昂進《こうしん》しているらしく、部下の言に依れば、
「草に臥す野陣の夜などは、夜中しきりにお咳《せき》をしておられますし、戦いの間に、血のような唾《つば》をそっと懐紙《かいし》へお忍ばせになるようなこともままお見うけ致されます」
 とのことであったが、秀吉の侍側にあるあいだは、苦しそうな眉ひとつ見せた例《ため》しもなく、問えば笑って、
「戦陣は楽しいものでござる。戦に向っている間は何も覚えません。数千の兵のいのちが、帷幕《いばく》の指揮ひとつに懸《かか》っていると思えば、半兵衛一個の病のごときは、思い出そうとしても思い出す遑《いとま》もありませんからな」
 と、例のしずかな言葉をもっていうのであった。
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