黒田如水49

 名馬書写山

 
 ことばの上では、いかに秀吉が負け惜しみをいっても、三木城離反のために、軍の既定作戦に急角の変化をもって来たことだけは蔽《おお》い得ない。
 第二次出征のこのたびは、初めからの方針として、備前にかかる予定だった。備前の浮田直家こそは、今、毛利の前衛をなしている最大な防塁《ぼうるい》だからである。
 が、今は——一転、まず足もとの異端から征服しなければ危地に陥る。秀吉は官兵衛のすすめに従って、急遽《きゆうきよ》、書写山に本営を移し、そこの寺院から指令していた。
 情報は敵に伝わるに迅《はや》い。
 紀伊、淡路の辺に、機《き》を窺っていた毛利の水軍は、百余艘の兵船に、兵数千を載せて、そのときもう沿海を襲撃していた。
「ひきうけます。殿には、正面の敵へおかかり下さい」
 官兵衛は、母里太兵衛《もりたへえ》、竹森新次郎、栗山善助などの股肱《ここう》に兵四、五百をひきつれて、上陸して来る毛利勢に当り、これに手痛い損害を与えた上、敵将の梶原景辰《かじわらかげとき》と明石元和《もとかず》を降して、立ち帰って来た。
「官兵衛、堪忍《かんにん》せい」
 そのとき秀吉がいった。怪しんで、何を左様に詫びられますかと訊ねると、例の開け放しなことばで、
「いや、自分はよく口ぐせに、お汝を称《ほ》めるとき、口舌の雄とか、三寸不爛の剣を持つ謀士だとか、軽々しくいっていたが、先頃、上月城を攻撃の折といい、このたびの武勇といい、決して御辺は口だけのいわゆる策士謀士でないことがよく分った。だから謝ったわけじゃ。ゆるせよ」
 そういうと彼は、草履《ぞうり》をはいて、ふいに庭へ出て行った。何しに? と見ていると、寺院の庭の巨《おお》きな海棠《かいどう》の木に繋《つな》いであった一頭の黒駒のそばへ立ち寄り、自身、口輪をつかんで、広間の正面まで曳いて来た。
「良い馬であろうが、官兵衛」
 官兵衛は縁まで出て、頭を低め、また両手をついて、
「栗毛でございますな。毛艶《けづや》のよさ、脚、艫《とも》(馬臀)、肩との均整、蹄爪の鋭さ。わけて眸が静かです。近頃見たこともないご名馬。十歳にも相なりますかな」
「いやまだ若馬《わかうま》じゃよ。七歳馬だ。先ゆき長く乗れる。戦陣の中を、乗りこなしたらなお良くなろうと思う。……どうだ、欲しくないか」
「欲しいと思います」
「それならお汝にくれよう……実はこのたびの西下に、信長公から拝領して、これに打乗り、初めてこの陣営に繋いだので、書写山と名づけて可愛がっていたが、秀吉の勲功《くんこう》は、大半はお汝の働きによると申してもよい。——官兵衛、降りて来て、手綱《たづな》を把《と》ってみい、何とも美しい歩様《ほよう》をなす馬だぞ」
「ありがとうございまする」
 庭上に降りて来て、官兵衛は地にひざまずいて手綱をうけた。そして一巡、乗らずに引き廻して見ていたが、三嘆して、
「むかし後漢《ごかん》の呂布《りよふ》が愛していたという赤兎《せきと》にも勝りましょうな。書写山とは、馬の名もよし、安土のお厩を出たものなら鞍縁起《くらえんぎ》も上々吉。きっとよい出世いたしましょう」
 と、心から嬉しそうであった。それを見て秀吉も、縁へ上がって、元の座にもどり、なお、眺め合って、
「働けよ、この上とも」
 と、励ました。
 官兵衛は更に一礼した。そしてやがて、庭垣の彼方へ向って、家臣の母里《もり》太兵衛の名を呼びたてた。何事かと、太兵衛が駆けて来ると、
「上月城の働きも、先頃、毛利の水軍を追い退けたときの功も、実に、そちの忠勤には目ざましいものがあった。これは今、筑前様から拝領した名馬だが、戦功へ下すったものゆえ、これはそちに譲ってつかわす。筑前様へ、よろしくお礼を申しあげたがよい」
 と、あっさり与えてしまった。
 母里太兵衛は、余りの過分に、歓びを越えて茫然《ぼうぜん》としていたが、手綱を押しいただくと、ぼろぼろ泣いていた。
 秀吉は心のうちで、官兵衛の器量《きりよう》をもう一応も二応も見直していた。
「この男、家臣のつかい方も、なかなか心得ておる。それだけに、使うにはちと難しいな」——と。
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