黒田如水33

 死を枕とし

 
 どうか生きて帰って来るな、と希《ねが》っている者と、無事を祈っている者と、彼の去ったあと、御着の城は、ふたつの人心をつつんで、表面は事もなげに、この夏をすごしていた。
 城中七割の者の期待を裏切って、黒田官兵衛は、立つ前よりも、ずっと元気な体《てい》で帰って来た。
「岐阜表との交渉は、まずまず、上首尾《じようしゆび》と申しあげてもよいかと存じます」
 彼は、逐一《ちくいち》のことを、すぐ主人政職に告げた。また、一族宿老以下の主なる者にも、つぶさに報告した。
 が、たちまちその席でも、益田孫右衛門、村井河内などの、反対組が口をそろえて、
「こちらからのみ、言質《げんち》を提供して、織田家からは、いかなる誓紙を持ち帰られたか」
「単なることばとことばの約束が、この乱国に何になろう」
「しかも今ただちに、織田軍が中国へ進駐《しんちゆう》するでもないのに、逸《はや》まった加担を申し入れ、万一、織田が今かかっておる北陸攻めにでも敗れた場合は何とする気か」
 などと非難は依然ごうごうたるものがあった。その点、政職の面《おもて》にもまだ不安そうな色が窺《うかが》われぬでもない。しかし官兵衛の心は、信長、秀吉に会ってからさらに一倍の信念を加えているので、ほとんどそれらの紛々たる末梢的《まつしようてき》非難を眼中にも入れない容子を示した。
「それがしにお任せおき下さい。この度《たび》の儀については、不肖《ふしよう》官兵衛にご一任下さるとは、出立の前に、確《しか》とお誓い下されたことではないか。官兵衛としては、このお使い、まず十分に功を見たものと、信じて疑いませぬ。——なぜ、織田家の誓紙を持ち帰らぬかとご不満であるが、まだわれらよりも、何の実も、働きも、また忠誠の一片すら、織田家に対して顕《あらわ》しておらぬのに、何ぞ織田殿から安価に誓紙を賜われるわけはない。——失礼ながらあなた方は、井の中の蛙とでも申そうか、自己の位置実力と、中央の情勢や、織田家の勢力とをご比較あるのに、すこし自分に即し過ぎた錯覚《さつかく》を抱かれているように思われるが」
 こう諭《さと》して、終りに、
「あきらかに、以後は、ご当家は織田麾下の一塁たれば、表面、毛利方に対してはともかく、内において、なお二派の争論は慎しまれたい。わが殿は、織田殿に随身せられて中国に時を待つ重要なお立場にあるものなることを、きっとお忘れなきように」
 と、厳《おごそ》かにいい渡した。
 しかし数日のうちに、何十名かの家士が、御着《ごちやく》の城からたちまち姿をかくした。みな脱城者であり、みな毛利家の領へ奔《はし》ったものであることは、調べるまでもなく明瞭だった。
 従って、いかに秘密を保とうとしても、彼が使いして、主家小寺家を、遂に織田家にむすびつけたという事は、かくれもなく、敵毛利輝元へつつぬけの状態となり、四隣の諸城も、俄然大きな衝動をうけて、この一城を見まもり合った。
 何より危険になって来たのは、官兵衛そのものの生命である。毛利方へ心をよせている者全部が脱城したわけではない。御着の内の宿老や一族の中にすらまだ反信長党がいるし、毛利に通じている徒が少なくないのである。眠る間とて油断はならない。毎夜毎夜、彼は死を枕として寝ているも同じだった。
 その後、織田軍は、秋から初冬にかけて、北陸攻略にひたすら全力を傾倒していて、中国を顧みるいとまなどはまったくないらしい。加うるに、毛利方では、御着、姫路の異端をもって、
「捨ておかれぬ大事である」となして、伐《う》つならば今、信長がなお、他に繁忙なうちにこそと、はやくも兵船十数艘に、芸州《げいしゆう》吉田の兵を満載して、姫路附近の海辺から押しあげて来た。この上陸は年をこえた天正四年の春、月のない夜に行われた。早馬の知らせで、姫路城から少数の兵が急遽《きゆうきよ》、防ぎに駆け向ったが、到底、精鋭な毛利勢の敵ではなく、たちまち撃退された。やがて朝となれば姫路の町の一端からは濛々《もうもう》と戦火があがって、辻々を戦い取っては進んで来る先鋒の毛利兵のすがたがいたる所で見られるほど危急が全城下を蔽《おお》ってしまった。
 
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