世界の指揮者34

  そんなわけで、その年の七月ザルツブルクの音楽祭に行った私は、ヴィーン・フィルの演奏会で、クナッパーツブッシュがブルックナーの『第七交響曲』をやるのを、はじめてきいたのだった。それから、バイロイトにまわった私は、ここでも、彼の指揮で『パルジファル』をきいた。

 ブルックナーのことは、正直いって、私はわからなかった。あの荘重なアダージョの途中で眠ってしまった私は、目がさめてもまだその音楽が鳴っているのにすっかり恐れ入ってしまった。それにつづくスケルツォでも、単純なリズムの音型が無限に反復されるのに閉口した。要するにえらく単純なものが、やたらこみ入ったものとして、提出される音楽という印象をもったにつきる。あの大指揮をもってしてもわからなかった。バカである。
 クナッパーツブッシュの指揮姿もまことに変わっていて、この比較的小柄な老人は指揮台に立って、片手は台にめぐらした欄干につかまったまま、もう一方の指揮棒をもった片腕も最小限にしか動かさず、ときどきうんと気合をこめて前につき出すと、例のブルックナーのあのホルンだとかチューバだとかのファンファーレが湧然《ゆうぜん》として咆哮《ほうこう》しだすという具合だった。およそ、あんなに動かない指揮、腕というより腹でやってるみたいな指揮は、あとにもさきにも、ほかにみたことがない。テンポも思いきり、ゆっくりしたものだった。だが、弦の音などいいようもなく厚味があって、しかも柔軟だったような気がする。一九六九年だったか、ショルティといっしょにヴィーン・フィルが日本に来た時は、その音が探してもみつからず、おや、どうしたのかしらと思ったものである。彼のブルックナーについては別にかいたから(『吉田秀和全集』第二巻所収の「ブルックナーのシンフォニー」参照)、ここでは省略させていただく。
 ところで私は、その足でバイロイトにまわり、その年の出しものをつぎつぎとききまくったのだが、その中に、クナッパーツブッシュの指揮する『パルジファル』があった。
 ああ、それは本当にすばらしい『パルジファル』だった。私は、実は、その年の春パリでシュトゥットガルト歌劇の一行による『パルジファル』をきいていたので、これが二回目にきく『パルジファル』だったのだ。念のために書いておけば、シュトゥットガルトのオペラは、ヴィーラント・ヴァーグナーが戦後のバイロイトに出現するや、まっさきに彼を登用したドイツの最初の国立オペラであり、いわば新バイロイト様式がバイロイト以外の土地で公衆と対決する機会を最初につくりだした歌劇場である。そうして、これが、どういう次第だか、パリに進出し、そこで好評をもって迎えられたのだった。戦後バイロイトの代表的テナー、ヴィントガッセンも、本来、シュトゥットガルトのオペラの歌手だった、と私は覚えている。それにまた、『パルジファル』はヴィーラント・ヴァーグナーの数ある演出の中でも、彼のあの象徴的な舞台作りを実現するうえで最も大胆率直にそうして最も決定的に成功した最初の出しものではなかったろうか。
 私は、すでに、パリのオペラ座にこれがかかった時に見た舞台で、度胆をぬかれた。幕があいて、最初の森の朝の情景での光りのニュアンスの美しさもショックだったが、そのあとの舞台転換の音楽につれて、パルジファルとアンフォルタスがステージの横を歩いている間に、場面はグラール(聖杯)をまつる聖堂の内部に移る。そこに出てきた騎士たちのまったくシンメトリックであると同じくらい神秘的な感じの横溢《おういつ》する歩み、着座、アンフォルタスの登場! こういったすべてが、それまで私の知っていたすべてを完全にガラクタとして一挙に棄ててしまってもおしくないほどの絶対の優位性の中で、まったく新しい形で、提起され、進行してゆくのだった。それから第二幕のクリングゾールの城と花園、それから第三幕での再び森から聖堂への転換の場と聖堂内の情景。
 そうして、それらすべてを蔽《おお》い包んでいる音楽〓 ここでも、私は、自分がよくわかったなどとはいえない。いや、今でも、私は、そういうまい。ことに、私にとっての躓《つまず》きの石は、全曲を覆う、あの疲れたような、緊張にとぼしいリズムとダイナミックである。ことに、先にいった二度にわたる場面転換を中心として有名な鐘の動機が、いつやむともなくくり返される時(譜例1)、あらゆる外的な兆候は、それが進行の音楽であるのを示しているにもかかわらず、私には、その足どりの中に、このころすでに芸術の歴史を通じても最も偉大な天才の一人に数えるべき大家の骨の髄までくい入っていたところの疲労を感ぜずにいられないのだ。
 しかし、そのほかの点でいえば、一体誰がこの驚くべき音楽について、叙述することができるだろうか? それには、ニーチェの天才をもたなければならない。室内楽的な精緻《せいち》(ことに第二幕!)であみめぐらされた音の織地の上で(その点では『トリスタン』のスコアさえとても比べものにならない)、かつてほかに味わったことのないような蠱惑《こわく》にみちた光彩を重ね合わせて、玉虫色というか琥珀《こはく》というか、角度を転ずるごとに刻々に微妙に変化してやまない音色で輝いたり、底光りしたり、半透明になったりするこの音楽は、ヴァーグナーの作品の中でも、まったく独自の魔力をそなえている。
 私は、それを、バイロイトではいきなりクナッパーツブッシュできいたわけである。そのクナッパーツブッシュの『パルジファル』は、本当に幸いなことに一九六二年のバイロイトの実況録音がレコードになって残っている。それにこれこそは天下周知の名レコードであって、私としても、これについては今さら何もいう必要もなくて大変ありがたい。バイロイトでの上演は、例の毎年の祝典公演の期間に何回かあるのだし、そのうえ、あすこではほぼ一カ月にわたって、たっぷりと、そうして丁寧に行なわれる練習の期間があるのが通例である。だから、実況録音といっても、何も必ずしも、初めから終わりまで、一回限りの実演を録音したものと限ったわけではない。前後の別の公演の録音とつけ合わせて正したり、少しならば練習の時の音をとり出してくることも不可能ではない。この『パルジファル』の場合、それがどの程度、どこで行なわれているか、私にはわからないが、想像はできるのである。おそらくクナッパーツブッシュは、そんなことにたいして興味がなく、技師たちに一任したのではなかろうか。問題は、むしろ、歌手たちだったろう。この場合に限らず、歌手たちにとって、複雑で困難を極めたヴァーグナーの歌劇を舞台で歌ったそのままを、録音されてはたまったものではなかろう。どの晩がよく歌えた、どの日のは具合が悪いと、もし各人がそれぞれ主張しだしたら、どういうことになるのだろうか?
 私が今ここで、そんなことを心配したって仕方がない。私たちの今、耳に出来るこの演奏は、本当にすばらしい。今度この原稿を書くに当たって、全体をじっくりきき直したのだが、何をいうこともない。ただ、こういう公演の記録がいつまでも残る形で存在しているということの喜びを満喫するだけである。
 クナッパーツブッシュは、初めミュンヒェン大学の哲学科で学んだあと、「ヴァーグナーの『パルジファル』におけるクンドリー」というのをドクターの学位論文にしたということだが、そういうことは別として、このレコードをきいていても、クンドリー(ここではアイリーン・ダリスが歌っている)の役が実におもしろい。もちろん、第二幕でのそれが、いちばんのききどころである。が、ここでの彼女のパートは、歌としては非常に大きな音程の飛躍の個所が多いうえに、クリングゾールとの問答の時には、上のから13度下ったdまでとぶのがある。まあ、これはオクターヴに5度を加えたのだとしても、のちにパルジファルに向かって、イエズスのことを嘲笑《ちようしよう》したために、永遠の罰を蒙《こうむ》った次第を物語る時に、こんなところがある(譜例2)。その時の歌と、それから、残念ながらここには簡単に書き写すわけにいかないが、その間を縫ってゆく管弦楽の表情の、実に細かくて、柔らかくて、しかも心の底まで深々としみ通ってくる響きというものは、ほかに類を思い浮かべることのできない絶品である。柔軟でいて、そのくせ緊迫感が充満しているのである。そこには、ヴァーグナーの精妙の極であるオーケストレーションと同じくらい、休止、つまり沈黙が微妙にさしはさまれていて、それを扱うクナッパーツブッシュの手腕が、また、大変なものなのである。休止の大家の彼が、ブルックナーの指揮にかけても当代きっての妙手と称《たた》えられたのは、偶然ではない。そうして、妙な話だが、こういう個所をきいていると、クナッパーツブッシュという人は、ずいぶん勝手気儘《きまま》な生き方をしたようでいて、実は、本当に辛抱強く、苦しみにじっと耐える力の豊かにあった人ではなかったろうかと思われてくるのである。ヴィーラント・ヴァーグナーの新しい演出に対しても、彼はあんまり共感できず、バイロイトの独特の構造のオーケストラ・ボックスで指揮をとっている間中、下ばかりむいて、ちっとも舞台を見たがらなかったので、みんな困ったという話である。
 
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