世界の指揮者29

  それは、私にとっては、この『ばらの騎士』と、その翌日きいたヴィーン・フィルの演奏会での彼の指揮をきいて、生まれてきた考えなのである。私は、まだ、自分はバーンスタインのことがよくわかっていないのかもしれないという気もときどきするのだが、とにかく、それは、まず、こんなことになろう。

 指揮者バーンスタインの第一の特徴は、それが非常に逞《たくま》しい活力にあふれたものだということだ。それは肉体的なエネルギーにあふれたものであり、そうして強烈な情緒を発散するタイプである。それも爆発的な衝動的なものというよりも、もっと持続性のある、粘り強いものだ。ときとして、粘っこくてやりきれないこともあるけれども、これは反射的、非省察的な性格のものではない。もっと、根本的本質的に、彼の人並み以上にすぐれた知性——音楽的知性にいたるまで一貫してあるものだと思われる。
 というのは、私には、これがバーンスタインの独特なところかと思われる急所は、この強烈な情緒への傾斜が、同時に、いつも、ある種の非常に覚めた意識的な働きと結びついて働いているらしいことにあるからである。
 別な言い方をすると、バーンスタインの指揮するマーラー。バーンスタインは、現代の代表的マーラーの指揮者であるが、彼のマーラーをきいていると、深刻な感情の動揺、非常に幅のひろい振動と起伏のほかに、感情と悟性との対照とか均衡とかのとり方にも、その猛烈さが一歩も弱められることなく出ているのである。その結果、これは極度に主観的でありながら、感情一点張りの演奏ではなくて、かなりに計算のゆきとどいた演奏になっている。こういう人の場合、主観的即感情的とはならない。
 そういうのを、かりに、私の好きな言葉ではないけれども、ユダヤ的な性格と呼ぶとすれば、バーンスタインの音楽は、多くのユダヤ人芸術家に共通する、あの都会的な、反牧歌的な点でも、際立った特徴をもっている。ただし、ここで都会的というのは、感覚の過度の洗練、過度の敏感さというものとは、むしろ逆のものである。都雅でもなければ、蒼白《あおじろ》い、ひよわな神経質でもない。むしろある種の大都市の住民や子供たちにみられる、すでに多くの害毒や混乱や騒音に免疫となったものの感情と知性の機敏な逞しさとでもいったものである。
 私が、バーンスタインで違和感を覚える最大のものは、ひょっとしたら彼の作品にも演奏にも同じくらいある「標題楽的なもの」への傾向かもしれない。十何年前はじめてバーンスタインの指揮で彼の作品をきいて以来のことをふりかえり、それから特に先年ヴィーンで彼をきいた時のことを思うと、バーンスタインの音楽には、プログラム・ミュージックへの根強い親近性がある。
 彼のマーラーにも、だから、私たちが充分に敏感だったら、きっと、多くの具体的で描写的なものをきき出せるのではないかと思う。そうでなくとも、たとえば、彼のふったベルリオーズの『幻想交響曲』を耳にしたものは、この音楽から、実に多くの「ものがたり」と「描写」をひき出してくるバーンスタインの力に驚かずにいられないのではなかろうか。少なくとも、私はびっくりした。そうやって音楽の叙述的な性格を浮きぼりにする、そのやり方の烈しさと生々しさ、迫力と鋭さはほかに類のない域に達している。これをきいたあとで、モントゥの指揮のレコードできいてみると、その、「柔かく、夢幻的」に響くこと。まるで別の曲どころか、別天地みたいだ!
 ベルリオーズがエキセントリックな物語り手であったことは確かだろうが。
 この「物語り手」としてのバーンスタインの特性は、彼の啓蒙《けいもう》性を解明する糸口にもなるだろう。
 この名指揮者は、ときどき、情熱を生きるのでなく、情熱の何たるかを、きく人に教えるような演奏をする時がある。それから、特に、優しさ、甘美さ、快適さを表現しようとする時のバーンスタインには、私には少しやりきれないような甘ったるさがつきまとう場合がある。特にヴィーンで、自分で独奏しながらモーツァルトの協奏曲の指揮をする時、右に左にと合図をしながら、ときどき「うまくやった、ありがとう」とでもいわんばかりに唇に指をあてて、甘いキッスを楽員に送っているのをみた時は、私にはそのまま席にのこっているのに、かなり努力がいった。
 しかし、その時——私は前にかいたように、ステージのすぐ下の第一列に坐っていたのだが——、私のまわりには、恍惚《こうこつ》として彼を見上げている何人もの女性の目があったのも事実である。
 バーンスタインは、単に聴き手を陶酔さすだけではなく、オーケストラの楽員をも強く魅惑するにたる精神的放射があるのであろう。
 名指揮者というものは、彼自身の中にすぐれた音楽としての素質をいっぱいにもっているというだけではたりない。彼は、管弦楽の楽員たちにも、少なくとも彼の棒の下にある限り、一人一人がすぐれた音楽家なのだという信念を吹きこむ能力がなければならない。つまり、彼は、楽員を魔法にかけ、ふだん以上の能力を発揮できるようにする素質をもっていなければならない。日本人でも、たとえば、小沢征爾にはそれがある。
 
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