世界の指揮者19

  指揮者クリュイタンスの真骨頂は、ベートーヴェンとかブラームスの演奏にあるのではない。フランス印象派、特にラヴェルがよい。それも私のきいたレコードでいえば、『ダフニス』といった傾向のものよりも、むしろ『ラ・ヴァルス』『ボレロ』、それから『スペイン狂詩曲』の中の舞曲的なものなどが、傑出しているように思える。

 クリュイタンスのは、印象派といっても、詩的で輪郭《りんかく》の曖昧なものより、散文的で明快な論理をもち、雄弁の力強さをもっているものにすぐれているのである。
 ベートーヴェンでは、あんなに動きが硬く、どうしても外側にこだわって内面に入りきらない憾《うら》みがあったのに、ラヴェルの『ラ・ヴァルス』などになると、音楽は、まったく自発的でしなやかなリズムと和声の渾然《こんぜん》とした一体となって浮かび上がってくる。
 それに、このレコードで演奏しているのは、パリ音楽院管弦楽団だが、このオーケストラの全体の音色、あるいは個々の楽器——木管や金管はいうまでもなく、弦楽器から、合唱のその音色にいたるまで——の音の磨きのかかった輝かしさとか、それをきくと思わずゾクッとしてくるような冷たく冴《さ》えた美しさとか、こういった音の感覚は楽員たちの音感としてみるべきものであって、指揮者の演奏解釈とは別のものではあるけれども、しかし、結局は、それがあってはじめて、指揮者の考えは具体化するという意味では、やはり、ここで切りはなしてきいてみるわけにもいかないのである。その点で、目ざましい例は『ボレロ』の演奏である。あの俗悪な曲が——人によったら悪魔的というかもしれないが——クリュイタンス特有の統制のきいたテンポを土台にして、そのうえに無限に反復される旋律を奏する各楽器の音色は、まるで電気楽器か何かのように響いてくるために、俗悪さがかえって人工的で、気味が悪くなってくるといっても誇張ではない。
 私は、詩的でなく散文的なといった。ということは、ここでは、音の響きと音の意味しているものとが完全に重なりあい、一つになっていて、響きを越えた彼方《かなた》にまで何かを示唆するということがないということであるが、それと同時に、クリュイタンスのリズムには、不規則で曖昧なものがないという意味でもある。
 こういう点で、彼のラヴェルをきわめて高く評価する私は、逆に彼のフォレを、完全に楽しんでいるとはいえないのである。
 こんな言い方をするのも、私は、クリュイタンス指揮のフォレの『レクイエム』のレコードが、日本ではとても有名だし、非常に多くの人たちに愛され、高く評価されていると信じているからだ。
 私は、この機会に、このレコードをきいてみて、なるほど見事な演奏だと感心したことは事実だが、それと同時に、この名指揮者の剛気で、明快で、一点のごまかしもない棒の下では、たとえば〈サンクトゥス〉のような、あのハープの甘い響きをともないながら、合唱が、男声と女声で交誦《こうしよう》しあう部分など、あまりにも「劇伴音楽」じみた、安手の音楽にきこえてきはしないか? といいたくなった。それが、フォレのこの『レクイエム』の実体に則したものであるのか、それとも、本来この曲はそういうものではないのか。こういうことは、簡単にいいきってはならないものだろうし、私はそういうものの言い方には警戒的な人間ではあるのだが、しかし、この演奏をきいていると、名演であればあるほど、この点が気になってくるのである。
 私の考えでは、この名品でのクリュイタンスの演奏で特に耳にとまるのは、〈リベラ・メ〉以後のところである。ここでバリトン(フィッシャー〓ディースカウ)によって「天と地がうち震える時……」(Quando coeli movendi sunt et terra)と歌われる時、これまでの曲で慎重に避けられてきたドラマティックなクレッシェンドが音楽を土台から——しかし、ヴェルディの曲の場合のように、いかにもこれ見よがしの演劇的けばけばしさではなくて、もっと地下の深いところで——ゆさぶるのである。そのあと合唱が戻って来、そのあと再びバリトンの独唱と交替するのだが、それにつれて、管弦楽の低弦がピッツィカートでリズムを刻む。このリズムは、何でもない正規のリズムでありながら、忘れがたい鮮烈さで私たちの耳を捉える。
 この率直で純粋な力強さ、クリュイタンスの指揮で、私にとって長く忘れられないものがあるとしたら、その一つはここかもしれないなと、私はこのレコードをききながら考えたものである。こう書くと、お前は、やはり、この演奏に感心しているのではないかといわれそうだが……。
 
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