世界の指揮者27

  私がはじめて指揮者バーンスタインに接したのは、一九五四年の秋のヴェネツィアの現代音楽祭でだったと覚えている。秋といっても、九月の前半だったろう。それは、そろそろ夏の外国漫遊客の姿が消えかけるころ、そうして、有名なヴェネツィアのビエンナーレ——例の隔年にひらかれる国際美術展——は会期中ではあるけれども、鳴物入りで行なわれる開会式以下、大賞の決定その他の重要な行事がひとわたりすんでしまったあとに当たる時期だったと覚えている。このころは、まだ、ヴェネツィアのビエンナーレも活力が汪溢《おういつ》している時だった。

 音楽祭のほうは、何回目だったか覚えていないが、どうも、美術展ほどにはいかなかったようだ。それでも、私の行った年は、多くのオペラの名作の初演で名高い、フェニーチェ劇場で、ストラヴィンスキーの『道楽者のなりゆき《レイクス・プログレス》』があったり、別の劇場でベンジャミン・ブリテンの『ねじの回転』があったりした。ストラヴィンスキーのほうはたしかこの前年にここで初演されたものだし、ブリテンのオペラは、この年のが世界初演ではなかったかしら? 何か、そんなふうな気がする。そうして『道楽者のなりゆき』は、私はその前にニューヨークできいてしまっていたのだが、『ねじの回転』のあの異様な暗さと繊細さの混在するスコアに接するのははじめてだった。
 そういう中で、バーンスタインは、彼の自作の『饗宴《きようえん》』の指揮をしたのだった。これは、プラトンの有名な対話篇《へん》にもとづく交響詩で、その中でプラトンはソクラテス以下の人びとに精神的な愛と肉体的な愛について語らせたりしたわけだが、バーンスタインの音楽はけっしてロマンティックなものではなかったが、ギリシア風の典雅——といっても、具体的にどんな音楽だったら、そういう印象を与えるか、私自身にだってわからないけれど——というのでもなく、むしろ、今世紀前半の新古典主義的な、上品なものだったような気がする。というのも、正直な話、私は、この音楽のこと、あんまりよく覚えていないのである。むしろ、同じ音楽祭で、はじめてマデルナとノーノの管弦楽曲をきいて、それはあのころはやり出した《ヴェーベルン的点描主義》の影響の濃厚な作品だったけれども、その中ではノーノの剛とマデルナのやや抒情《じよじよう》的なのと、二つの行き方の違いが感じられておもしろかったので、そちらのほうをずっとよく思い出す。
 ともあれ、バーンスタインの指揮——あれはどこの交響楽団だったのかしら?——の姿は、その時からもう、とてもにぎやかなものだった。作品の中の音の数も多かったけれど、動きもひどく派手で、同じ作曲家兼業の指揮者といっても、それまでに私の見てきたような、どちらかというと音楽の形をはっきりさすのに重点をおくヒンデミットとかミヨーとかストラヴィンスキーとかの、いわゆる《作曲家的な指揮》というのではなくて、きわめて活発な指揮だった。
 バーンスタインの指揮に接したつぎの機会は、たぶん一九六一年、例の東西音楽祭が東京上野の、できたばかりの文化会館を中心に開かれた時のことだったろう。このころの彼はもう、指揮の専門家というより、ニューヨーク・フィルハーモニック協会の管弦楽団の音楽監督、常任指揮者として、アメリカ楽壇きっての寵児《ちようじ》としての地位を確立していたのは、いうまでもない。東京でも、この時の彼をきいた人は、私のほかにもたくさんいるはずだ。「いくらよく動くといっても、こんなに腰から拍子をとるような、こんな忙がしい指揮だったかしら?」と、私は思った。この時はドビュッシーだとかラヴェル——『ラ・ヴァルス』、それから彼がピアノ独奏もうけもった『ピアノ協奏曲ト長調』——などをきいたと思う。猛烈に「音楽的」で、しかも活気にみちあふれ、音楽するのが楽しくって仕方がないといった演奏だった。
 それと同時に、ニューヨーク・フィル自体も、私が前にニューヨークでブルーノ・ヴァルターやミトロプーロスできいたのとまるでちがって、じじむさいところがなくなり、すっかり若返って、バリバリ大きな音を出していて、何か痛快だった。「やっぱり、彼こそはアメリカ随一の音楽的な人物なのだろうな」と、私は思った。
 しかし、この時の彼の全演奏を通じて、私が一番に思い出すのは、実はチャールズ・アイヴズの『答えのない質問』という比較的短い曲である。私はあの時アイヴズをはじめてきいたはずであり、きき終わっても、さっぱりわからなかった。ただ、曲の終わり方が、すごく印象的で、まさに「答えようのない質問」をつきつけられて、どぎまぎしているうちに、先方に立ちさられてしまったような、何とも苦しいような恥ずかしいような、腹立たしいような想いがしたことは、今でも覚えている。このあと、いつだったかストコフスキーが来て、読売日響を指揮した時も、たしか、アイヴズをやったはずだが、その時のことより、このバーンスタインできいた時のほうが、少なくとも私には、強烈な印象が残っている。
 このあとバーンスタインをきいたのは、一九六八年の春のヴィーンでだった。この時は、もう、バーンスタインをききたいばかりにヴィーンに行ったようなものだった(といっても、私は当時ヨーロッパに一年の予定で滞在していたので、何も東京から出かけて行ったわけではない)。それというのも、彼がヴィーンの国立オペラで、クリスタ・ルートヴィヒの公爵夫人、ベリーのオックス男爵以下の配役で『ばらの騎士』をやって大評判をとっていたからで、ないないという切符を苦労して手に入れたあげく、オペラのほかにも、ヴィーン・フィルハーモニーの演奏会にも出かけていって、ステージのすぐ前の第一列で、右横にバーンスタインを見上げながら、彼の自作——何といったっけ、あの素人合唱団のために書いたカンタータみたいなもの——だとか、モーツァルトのピアノ協奏曲(ここでは彼が独奏までつとめていた。バーンスタインは人前でピアノをひくのがよほど好きなのだろう)だとかをきいた。ほかにブラームスもあったかと思う。
 この三度目のバーンスタインは、もうアメリカ楽壇の寵児というだけでなく、ヨーロッパのある新聞記事をひけば、「世界で二番目の一番偉いマエストロ(der zweite gr嘖ste Maestro)」ということになっていた。「一番目の一番偉いマエストロ」が誰かは、書くまでもないだろう。
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