世界の指揮者25

  ベームの指揮では、シューベルトのほか、ブラームス、ベートーヴェンはもちろん、とりわけて、R・シュトラウスとモーツァルトといったところを、私たちはよくきいているわけだが、それとならんで、というよりも、むしろオペラでの指揮にこそ、彼の本領はさらに高く評価されるのではないだろうか? 私は、少なくとも、そう思っている。

 ベーム指揮のオペラでは、例の一九六三年の日生劇場の柿《こけら》落とし公演にベルリン・ドイツ・オペラがやってきた時、ベームが同行して、『フィデリオ』と『フィガロ』を指揮したから、日本でも、深い感銘をうけた方も大ぜいおられることと思うが、私はそのほか、あちこちの劇場で、いくつかの演目をきいている。
 その中で、しかし、いちばん印象に残っているのは、R・シュトラウスの『影のない女』、ベルクの『ルル』、そうしてヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の三つである。大体がベームはドイツ系統のオペラにかけては現代最もすぐれた指揮者の一人であるというのは誰しも異存のないところだろうし、アメリカ合衆国などでは最も代表的なドイツ・オペラの指揮者と評価されているらしいのだが、これも考えてみれば、不思議なことである。
 オペラというものは——ヴァーグナー以来の楽劇をそれに加えて——、どだい、演奏会のように正確精密な演奏をするのが至難な種目である。ヴァーグナーやシュトラウス、ベルクといった人びとのあの複雑で膨大《ぼうだい》なスコアは管弦楽の奏者たちにだってなかなか正確にひけないのに、楽劇ではそれに歌い手が加わり、彼らはまた歌うほかに演技をしなければならず、第一、オーケストラの楽員はいつも譜面を目の前において演奏しているのに、哀れな歌手たちはみんな暗譜でやらなければならない。それに言葉、歌詞という厄介なものがあって、それも覚えなければならない。大体、歌手という音楽家はピアノ伴奏の歌曲を歌う時だって、ピアノの部分をみな覚えているとは限らないのに、まして、楽劇の管弦楽の部分なんか覚えるのはもちろん、それを舞台の上で正確にきいているなんてことは、人間業ではない。いや、そんな人はめったにいないのではなかろうか。
 だから、前にふれた練習風景にきかれたような、ベームの考える正確な演奏は楽劇では望むべくもないのである。一口にいうとオペラ、楽劇の演奏というものは演奏会での私たちがききなれている水準とはくらべものにならないくらい雑なものになりやすく、また、そうなっても不思議ではないのである。
 ところが、ベームの指揮できくと、ほかの名だたる指揮者のそれとくらべても、はるかにおもしろくきけ、充実した感銘が残るのである。ということは、ベームが、練習できくと、あんなに雷親爺《おやじ》でありながら、オペラのroutine(惰性的しきたり)というものにも、恐ろしいほど通暁していて、譜面のどこをどうおすと、歌手たちを救いやすいかとか、どこの何という歌手はどういうところでまごつきやすく、どこではよい気になって歌いとばすくせがあるとか、とにかく、そういったこまごましたことも実によく心得ているのではないかという推理に導く。ベームの指揮できくとオペラ、楽劇があんなにおもしろくきこえるのは、だから、こういうルティーヌに通暁している一方で、しかし、凡庸な指揮者とちがって——そういう人もいないと世界中のオペラ劇場はなりたたなくなってしまうのも確かだが——、それに妥協して水準の低い演奏で満足してしまうのではなくて、そういったたくさんの弱点を徹底的に知りぬいていながらも、どうやればその条件の中でいちばんよいものに近くもってゆくことができるかをもとめ、そうして、そのためには妥協をしない精神の持ち主で、彼があるからではなかろうか。
 歌劇場で指揮をするといっても、ベームは、新しい演出があるときとか、あるいはザルツブルクの音楽祭、バイロイトのヴァーグナー祝典劇場での公演とかいった機会に主に指揮をするのであって、どこかのオペラ劇場に契約があってごくありふれた日常的公演に頻繁に出演するというのではない。そういう時は管弦楽団や歌手たちは、平常よく知っているオペラといっても、もう一度よく勉強しなおして来る。ベームはそういうのを相手に徹底的に調べ直させる機会をつくる機縁にもなるわけである。それに、何といっても、彼のギャラは高いから、どこの歌劇場でもそうめったに使うわけにいかない。
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