世界の指揮者14

  このブラームスの『第四交響曲』が、一九三九年のベルリンでの録音で、ベルリン・フィルハーモニーを使ったものであったのに対して、モーツァルトの『レクイエム』は、同じ年の録音でありながら、イタリア国立放送の管弦楽団と合唱団の演奏で、それに独唱者として、ソプラノのピア・タッシナーリ、アルトのエベ・スティニャーニ、テナーのフェルッチョ・タリアヴィーニ、それからバスのイタロ・ターヨという顔ぶれとなっている。

 私は、イタリア系の歌手には賛嘆を惜しまない人間だが——それも、ソプラノとテナーばかりでなく、バスだって素晴らしいと考えるのだが——、しかし、イタリアのソプラノのあの鼻にかかった鋭い響きとか、テナーのあまりにも開放的で、ただ声の響きばかりを自己陶酔的にきかせる歌い方とかには、閉口することがないではない。
 このレコードにも、そういう瞬間がある。だが、全体としてみると、これは私には、たとえばカール・ベームがヴィーン交響楽団とヴィーンの国立オペラの合唱団を指揮したレコード(テレーザ・シュティヒ〓ランダル、イラ・マラニウク、ヴァルデマール・クメント、クルト・ベーメの独唱)などにくらべると、ずっと気に入るのである。また、ヴァルターよりも好きである。私は、モーツァルトの『レクイエム』のレコードを、そんなにたくさんきいているわけではないが、私の知っているものの中では、サバタのモーツァルトは、カラヤンのそれにいちばん近いように思われる。テンポといい、盛り上げ方といい、歌わせ方といい。
 というよりも、逆に、カラヤンは、彼の先輩たちのうち、誰の演奏にいちばん親近性を感じたかと考えてみると、このサバタにではなかろうか? 少なくとも若いカラヤンはそうだったのではないか? この演奏をきいていると、私には、そんな気がしてくるのである。
 この曲のどこが劇であり、どこが《抒情《じよじよう》》であるとみるか。どう歌わせ、どう知的に構成するか。この二人の大家は、ちがったところもたくさんあるにもかかわらず、この点で、共通性がある。こういう言い方がすでに、多くのモーツァルト・ファンの気に入らないのではないかとも思われるのだが、私は何もこの二人がモーツァルトの不朽の名作を分析しているその手つきを比較しているのではない。厳粛であって、重苦しくなく、知的であるが、機械的で、ひからびて冷たいものがない、澄んで純粋だが官能的で、あくまで艶々《つやつや》しさを失わない……といったモーツァルトの音楽の本質に則して考えたうえで、この『レクイエム』には、しかし、カトリックの礼典につきものの劇的な、ややつくりものめいたものと、天才の高度に純潔な流露との両面があるのではないかと、私はいっているのであり、それへの感触とアンテナが、このサバタの指揮にはカラヤンのそれにも、かなりはっきりと共通して感じられるといっているのである。
 ただ、ここでも、サバタのレコードは、古い録音であるだけに、どうにもならないほど音が貧しい。
 せっかくの名演を納めてありながら、音が貧しいために、私たちがくり返しとりだしてきくことのできなくなったレコードが、どのくらいあることだろう。それにしても、と私はよく思うのだが、私たちは、これらのレコードがまだ新しかった時は、結構みごとな音と考えて、楽しんでいたではないか。SP盤の時だって電気吹込みというのは、前のとは比較にならず《よい音のレコード》を作り出して、私たちを喜ばせた。LPになってからだって、この歴史がくり返されたのは、初期のLPから、そのあとのもの、モノーラルからステレオへの転換……。
 ということは、私たちがその高忠実性を享受している現在のレコードだってまた時がたてば、想い出の中でだけ素晴らしく、しかしいざとりだしてきいてみると、あまりにも貧弱な音なので、つい消してしまうようなものに変化してゆく運命をまぬがれるわけにはいかないということだろうか。現にもう間もなく四チャンネルの時代がくるというではないか。
 サバタをきいていると、私は、レコードについて書くことの空しさを思い、名演奏の意味とは——実演であろうと、レコードであろうと結局はそれをくり返しきき直しのきかない一度かぎりの感銘を決定的に大切にすることと切りはなせないところで追求すべきであって、それを何度もくり返しきき直し、考え直してみることとは対立し、矛盾するのではなかろうか? と、考えこんでしまう。
 すべての瞬間が立ちどまることも、くり返されることもないものだとしても、もし、そのことを私たちがもっと徹底的に思い知り、考えてみることができるとしたら、演奏の与える感激に対する私たちの態度は、良きにつけ、悪しきにつけ、質的に変わってくるのではないだろうか? ということは、感動の質にも変化がでてくるのではないかと問いただすことと、同じことになる。
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