世界の指揮者23

  先年ドイツで暮らしていた時、テレビでカール・ベームの練習風景を見た。たぶんヴィーン交響楽団が相手だったと思うが、ベームがシューベルトのあの長い『ハ長調の交響曲』の練習をしているところが写されていた。それもたしか一時間近くの番組だったはずである。そうして、その翌日だったかには、同じ顔ぶれで同じ曲の本番の放送があった。私は、たまたま、その両方を見ることができたが、とても、おもしろかった。ついでに書いておくが、ドイツのテレビは日本のテレビとは比較にならずおもしろい。日本のテレビは娯楽、それもごく薄っぺらなものが中心だが、ドイツのは、もっと完全に生活し、考える人間としての大人のためのものが中心である。ニュース一つとってみても、新聞の見出しだけよんでいるのと、解説記事つきの報道に接するのとに匹敵するくらいの差があった。日本の報道は、カメラ操作とか何とかの技術ではずいぶん進んでいるらしいのだが、知的な分析は——意識してか無意識なのか——まるで貧弱である。もっともいくつかの例外はあり、それも最近は特によくなったということだが。

 わき道はこれくらいとして、ベームに戻ろう。
 ベームの練習での指示をみていると、その内容は、リズムの正確な扱い、特に付点音符、それからクレッシェンド、ディミヌエンド、フォルテ、ピアノといったダイナミックの綿密忠実な扱い、いろいろな楽器の間でのバランス、特におもしろいのはいくつかの声部が重なって和声をなす時と、そうでなくて声部がいわば横の線の流れとして旋律的な役目をもつ時との、そのけじめの厳守等々といったものが主である。要するに楽譜に書いてあることが忠実に守られて音になって出てくるかどうかを厳重に監督しているというわけだが、その監督の厳しい細かさはちっとやそっとのものではない。
 私は、これを見ていて、モデルを目の前にした肖像画家が、線をひいたり消したり、陰影を与えたりふくらみをつけたりといったさまを連想しないわけにはいかなかった。この場合、モデルは、楽譜というよりも、《音楽》なのである。というのも楽譜には、どの楽器の声部も同じ大きさで印刷されているのに、その中でどの声部に力点をおき、どれを抑え、どの楽器とどの楽器とを完全に重ね合わせ、どこではその中のあるリズムを強調するか、そういった瞬間、瞬間に流れてゆく多くの音たちの中で、たえず選択を行なうベームにとっては、それを決定するものはもう楽譜ではたりないわけである。楽譜は基礎になるが、選択はその先にある。それが、ベームのを見ていると、まるで、モデルの姿の微細な隅々まではっきり彼の頭の中のカメラに映っていて、すべてはそれになぞらえて、指示されてゆくかのような印象をうけるのである。それに、ちょうど画家が、ときどき画架から離れて、モデルと絵の出来を見くらべてみては、また絵に筆を加えるように、ベームもときどきオーケストラに演奏させてみておいて、やにわに「ファゴットもっと歌って!」と注意してみたり、「ここから、ヴァイオリンがリードして〓」とどなったりする。その結果、そこで弦なら弦に重点が加わり、その響きが優勢になってくると、俄然《がぜん》音楽に弦特有の柔らかい艶《つや》のかかった響きが上塗りされたようになり、その変化にずっとついてきた聴き手は何かがぴったり落ちつくところに落ちついたという、手応えのある印象を受ける結果になるのである。
 ベームの指示が、徹頭徹尾こういった細かい、いわゆる重箱の隅をほじくるような行き方につきるのに、それによって音楽がどんどん見事なものになってゆくのは、驚くほかはない。それに、ベームのドイツ語は、オーストリアのどこの訛《なま》りか知らないが、学校で教わり、ラジオやテレビで普通しゃべられている北ドイツのいわば標準ドイツ語とはひどく趣のちがうアクセントをもった言葉であり、そのうえに、しゃべり方に、何というか、何の魅力もなく、ただもう教養も何もない人間が地方弁でガミガミいっているような調子なので、その話し方、怒鳴り方と、さっきいった内容と、この両方を合わせてみると、こうやってしぼられる楽員のほうもたまるまいし、ときには、それこそアクセントのつけ方からフレージングまで音を出すたびにいちいち直され、あれでよく覚えていられるものだなと、同情してしまう場合もあるくらいだ。一時間近い番組といっても、結局は、初めから終わりまで、そんなことの無限のくり返しなのだから、見るほうも退屈してしまっても不思議ではない。
 そんな具合で、さて翌日の本番になってみると、ベームが昨日あれだけガミガミやったところが、その通り守られる時もあり、そうならない時もありだったし、第一、ベーム自身が昨日とはまた別の指示の仕方をしたりする時もあるのだから、私は一方では呆《あき》れ、一方では、「昨日はあんなに怒鳴ったりして、まるでこの音楽を知っているのは自分ひとりといわんばかりだったのに、今日はまたこんなにちがう。そういえばベームの最近出た自伝は『私は隅々まではっきり覚えている』(Ich erinnere mich ganz genau)という題だが、これこそ彼の練習風景に見えたのとまさに同じ精神から出た発想である。何とペダンティックでドグマティックなおやじだろう」と思って見ていた。しかし、きき終わってみると、あとに残るのはいかにも爽やかで力強い作品をきいたという充実感でしかないのである。不思議なものである。私は、これを「ベームの不思議」と呼ぶことにする(本当は「奇蹟《きせき》」と呼びたいが、ちょっと大袈裟《おおげさ》で気がひけるので)。それに、彼が本番で練習とちがう指示をするといったところで、私たち公衆がふれるのは最後の結果だけなので、それが練習とどうくいちがおうと、これは楽屋話にしかすぎない。ここで最も重要なのは、本番といわず練習といわず、ベームにしてみれば、いつも、彼には音楽の姿が微細な点にいたるまで、ganz genau——一点の曖昧《あいまい》さも残さず、はっきりと明確に見えている点である。彼はその心に見えているモデルの通りに、正確に再現しないではいられない。それが、ベームにとっての演奏ということの意味なのである。もし、演奏におけるレアリスムということがいえるとしたら、まさに、ここに一つの典型がある。それは一見しただけでは、日常性を越えた、特に創造性高いものとは思われない。だが、何というか、実にreliableな——安心してきける、信憑性《しんぴようせい》の高いものであり、後味もよろしい。
 私は、ベームとは別にどういうつきあいがあるわけでもないが、一、二度私的な席で会って、食事をいっしょにしたことがある。そういう時、彼はもうごく普通の、あまりにも普通の小市民にすぎず、会話の領域もごくごく限られた範囲を出ない。金はいかにもほしそうに見えるが、知的な目ざましさなど薬にしたくもない。それに、周知のように、彼は風貌《ふうぼう》からして、あまり映えない。背も比較的低いし、肉体的にはどこといって取り柄のない人物にしか見えない。
 それが、音楽をやると、その一つ一つはあくまで律義な手続きの連続でしかないのに、全体の結果は、現代ほかに匹敵するものは、ごく少数しかないような、りっぱな指揮となるのである。もっともそうなってくるのでなければ、世界の超一流の交響楽団の楽員たちが、彼のあの瑣細《ささい》事の連続のような、不愉快な練習につきあいきれたものではあるまい。もっとも、オスカー・ワイルドの脚本を愛読書にあげていたのを覚えている。ベームとワイルドとは奇妙な組合わせだが、ワイルドの芝居がかつての英語の上流社会の標準の話し言葉だったことを思いあわせると、案外この好みは、ベーム老の隠された教養を示しているのかもしれない。
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