世界の指揮者11

  だが、それは必ずしも正確ではない。ライナーには、たしかにそういう面もあるけれど、それだけではない。

 私は、彼のベートーヴェンは、『第五交響曲』のレコード(といっても、これはRCAのレコードの片面に入っている。もう一方の面のはシューベルトの『未完成交響曲』。オーケストラはシカゴ交響楽団である)をきいてみただけだが、これだけきいてみてもすでに、そうではないことがわかる。
 もちろん、これは恐ろしく筋肉質の演奏であり、骨と筋肉とだけからできているみたいな音楽になっている(それには、ベートーヴェンも、少々は責任がある。こんなに凄《すご》い内容の音楽を、こんなに一切の無駄をはぶいて、緊密に書いたことは、さすがのベートーヴェンだって、ほかに類がないのだから。『第九』はもちろん、『第三』だって、もっとずっと脂肪も多いし、汁気も多い。逆に、『エロイカ』ほどいろいろと異なった楽想がたくさんつめこまれている交響曲は、ベートーヴェンはほかに書かなかったといってもよいくらいである)。
 それに全体としても、速い。特にフィナーレが、驚くほど速い。
 だが、第一楽章のアレグロ・コン・ブリオ。これくらい合奏の整った演奏は、ざらにあるものではない。最初の主題の二つのフェルマータが、ライナーだと、一回目が約三つ、二回目のも音の上で四つ半ぐらいにとられているのも、前にヴァルターについて書いた時ふれたのとは逆であるだけでなくこのほうがずっとベートーヴェンの考えに近いはずだ。だが、そのあと、第一主題群を完全におえて、第二主題への移行部に入ると、スコアの三八小節目あたりから、テンポを上げてたたみかけてきて、ものすごい迫力を生みだす。それは、ほかに類をみないほどの合奏の正確さと相俟《あいま》って、実に強烈な逞《たくま》しさに達する。そのあと、ホルンによる呼び出しから第二主題が出るわけだが、これがまた、実に柔らかい。テンポもややおとしてあるのだが、まさに最小限の動きでもって最大限の対照が、そこから生まれてくるのである。これは再現部についてもいえる。ことに例のオーボエのソロにもってゆく時のリタルダンドも水際立って見事というほかない。名演中の名演というべきだろう。
 第二楽章も、スタイルは、もちろん同じである。ここでおもしろいのは、主題の中間にはさまれたハ長調の楽節で、ティンパニの響きが、ひどく耳につくことである。初めはとても気になる。だが、音楽が第三楽章に移ると、なぜティンパニを強調しておくことが大切だったかがわかりかけてくる。周知のように、スケルツォからフィナーレにかけての移行こそ、冒頭の主題の提示とともに、この交響曲の独創性の最大の目印の一つになるのだが、その時になって突然ティンパニが耳に立つというふうには、この曲は書かれていないのだ。
 というのも、この交響曲がハ短調から完全にハ長調に移った時、いわゆる「苦悩を通じて歓喜へ」の移りかわりが実現し、凱歌《がいか》が完全な必然性をもって導き入れられることになるわけだが、その前ぶれが第二楽章のあの変イ長調の主題の中に包みこまれたハ長調の楽節にあったのである。だが、あすこでは、勝利について語るのはまだ早すぎた。それはまだ、かいま見られた勝利の束《つか》の間《ま》のイメージでしかない。それにしても、これが勝利を先どりし、予感するもの、解放と勝利への予感と先ぶれであることは、指揮者とすれば、誇示したくなっても不思議ではなかろう。
 私は、ライナーが、この曲についてこういう具合にプログラムを想定して、こういう処理をしたといっているのではない。しかし、この交響曲について、あらゆる聴衆が否応なく感じさせられずにはいない、あの悩みと戦いと勝利への移りゆきの感銘を与えてゆくうえに、この交響曲でのティンパニの役割については、ライナーが考えなかったはずはない、といっているのである。その考えの具体的な表われを、以上のように演奏の移りゆきに即して感じとることができた、といっているのである。
 それにしても、この第三楽章の演奏も、傑出したものだ。ことにトリオがすごい。こういう演奏できいていると、このオーケストラも、よくも腕利きをこんなに揃《そろ》えたものだと感嘆しないわけにはいかなくなる。このトリオの、チェロとコントラバスの一糸乱れない逞しさと正確さには、まず、どんなオーケストラにいる同僚たちだって、拍手を惜しまないのではないか。それに、ここのすごさは、単に楽員たちの奏する音にだけあるのではない。音の間にはさまれた休止が、実に表現的なのである。機械みたいに、正確に計られた休止のくせに、雄弁なのである。
 終楽章は、先にふれたように、速い。とても速い。これもすごい迫力であるが、実演できいたとしたら、初めからこんなに速くてどうなるのだろうと、きっと、懐疑的になるだろうと思われる。それほどの全力投球の速さである。だが、そのテンポで結局、終わりまで押しきってしまうのであるから、もう感心するというよりも、あきれてしまう。それというのも、しかし、よくきいてみれば、第二主題のあの三連符の連続の中にをふんだんにまぜたダイナミックの増減の手加減が立派にコントロールされているのが大きな原因になっているのであろう。トスカニーニもそうだが、こういうイン・テンポの楷書型指揮者には、ヴァルター、フルトヴェングラーといった行書、草書的指揮者にない豪壮性の魅力とでもいったものがある。
 それにしても、もう一度スケルツォを呼び戻すという天才的着想のあったあとで、再現部以下の、あの長大なコーダも入れて二〇七小節から四四四小節までの二三八小節を、局部的にヘ長調つまり下属音の調性を見せるだけで、あとはほとんどハ長調だけで押しきっているベートーヴェンの豪放にして雄渾《ゆうこん》な度胸と力量には、ほとほと、兜《かぶと》をぬがざるをえない。
 まったく、大変な曲を書いたものである。
 ライナーもまた、この楽章をまったく何の小細工もなしに、初めからの猛烈なテンポでやりきってしまう。指揮者として、ベートーヴェンの投げた挑戦状に、正面から立ち向かった、というところであろう。ケレン味のまったくない、力の限りを出しきった爽快《そうかい》さ。
 この人も、小男で、かつ類まれな豪胆な人だった。それを私たちが、感じとるのは、ひたすら、彼のあの明確にして精密を極めた指揮によるのであって、ほかの何ものでもない。音楽とは何たる純粋無垢《むく》な芸術であろう!
分享到:
赞(0)