世界の指揮者09

  セルの指揮の秘密の一つは、彼のフレージングの正確と精緻《せいち》にある。これは、前書いたシューマンの単純な民謡風な旋律の提出ぶりにもよく出ていたのだが、レコードのうえで、最も衝撃的な効果で出ているのは、ドヴォルジャークの交響曲『新世界より』(アメリカ盤EPIC・BC一〇二六)だろう。この曲は出だしから、もう、フレージングの精密さで、きく人をびっくりさせずにおかない。こんなに精緻な『新世界』はほかにないのではないか。これはもうアメリカ・インディアンの新世界ではなくて、セルの居住しているクリーヴランドか何か、アメリカの大工業地帯の工場の高性能の工作機械の精密さが、同時に唸《うな》りをたてて日夜をおかず巨大な工業製品を産みつづけている、そういう新世界のものと呼びたくなる。

 だが、同時に、こういうものをきいていると、セルの完璧なアンサンブルの限界にも否応なしにぶつかる。
 私のいうのは、『新世界』にはもっと土くさいノスタルジックな雰囲気《ふんいき》があるべきだろうといった、そういう類の議論ではない。
 セルのアンサンブルの理想——合奏の完璧さと、室内楽的バランスの精密の理想は、単純で平面的な機械的正確さとちがうものだということは、もうはっきりしていることだが、その土台になっている管弦楽の各セクション、つまり弦、木管、金管、打楽器などの間での運動の柔軟性と同時に等質性の追求である。
 各セクションの等質性。これが、彼のハイドンやシューマンをあんなにすばらしいものにするのだが、逆にまた、これが彼のドヴォルジャークはもちろん、バルトークやブラームスから、ある重大な要素を落としてしまう。つまり、そこには色彩が欠けているのである。
 色彩が欠ける、というのはいいすぎだ。だが彼の場合、等質性が徹底すればするほど、音楽は単彩化する結果になる。管弦楽での色彩は、弦楽四重奏などにくらべて、そこで使われている各種の楽器それ自体の音色がいろいろだから、その楽器たち固有の色彩は、何も、なくなってしまうわけではない。だが、ヴァイオリンとフリュート、ホルンとクラリネット、トロンボーンとバスーンといったものの間には、何もそういった素材的意味での音色に違いがあるだけでなく、楽器特有の奏法——いわば《性格的奏法》の違いに由来する、《音楽の違い》というものがあるのである。もちろん、こんな幼稚な知識は、セルが知らないわけではない。しかし、彼のシューマンが成功するのはあすこでは各楽器の特性がすべて中性化され、単独では出てこない例がやたらと多いからであり、ハイドンでは、木管その他がソリスティックに使われてはいても、それは装飾的色彩であることが多く、主体はあくまでも弦にあるからである。
 セルのブラームスは実に堂々たるものだが、単調に陥りやすい、それは、ブラームスのオーケストレーションがシューマンのそれでもヴァーグナーのそれでもないのと、深い関係がある。これは、セルが「冷たい」とか、「いつもイン・テンポで機械的だ」とかいう、曖昧《あいまい》で、必ずしもいつも正しくはない評語に表わされているものの、もう一つ掘りさげた事情であろうと私は考える。
 ベルリンで、彼のヴェーバーをきいた時、私たちがものたりなく思ったのは、ヴェーバーのあの暖かく夢幻的なホルンや木管の特性が、ほとんど弦楽的様式に納められかけていたからだったのだろう。
 それだけにまた、セルのテンポの扱いは厳正で精密を極める。この点は、たしかに彼は、ライナーとならんで、テンポとリズムのもつエネルギーのトスカニーニ以来の最高に微妙な配分者である。彼のダイナミズムは、そこから生まれる。
 けっしてイン・テンポ一点張りではない。ベートーヴェンの『第七交響曲』の第一楽章、再現に入ってからの第一主題の指示を終えたあと(第三〇〇小節以下)、オーボエのドルチェではじまる「確保」で微妙な具合にテンポを落として、表現を深めるやり方はその目ざましい例であろう。それはまた、彼のダイナミックの扱いの特性に通じる。セルはけっしてダイナミックによる効果を濫用しない。この点では、彼はベートーヴェン以前の古典派といってもよいくらいで、彼のクレッシェンドやはいつも抑制と節度をもって慎重にとり扱われている。
 しかし同じ交響曲の例でいえば、第二楽章のあの哀歌的アレグレットの傑作には、セルの室内楽的様式の追求の結果から生まれた表現の幅の狭さも如実に表われている。狭さというのも的確ではない。室内楽は、また、それ自体の完全な一つの世界で、その世界はけっして管弦楽のそれより狭いわけではない。だが、それはいわば波瀾《はらん》万丈といったドラマティックな変化よりは、もっと内面に向かって拡がってゆく世界である。
 ところが、セルの世界は、また、必ずしも、内面化を指向するものでもない。ダイナミックの点でいったのと同様、それは抑制され節度のある均整のとれたものだが、内と外とでいえば、ちょうど、ハイドンのある種のものがそうであるように、室内楽と管弦楽との世界が完全にはわかちがたいところで生まれ、発展してゆく音楽である。
 セルの「ベートーヴェン」はそこにいる。それが、やや難解で、一度きいただけで、すぐ訴えかけてくるというものでない所以《ゆえん》だろう。
 それにしても、クリーヴランド管弦楽団というのは、物凄い管弦楽団である。ことに弦の良さは言語に絶する。第一ヴァイオリンからコントラバスにいたるまで、およそこれほどはっきりしていて、しかもよく響く音で、均質化された性能をもったものは、アメリカにもヨーロッパにもかつてなかったのではないか。これは表面だけの艶と磨きのかけられた「オーマンディのフィラデルフィア管弦楽団」とは、ちがうのである。
 ベートーヴェンの『第七交響曲』とともに入っている『レオノーレ』序曲の三番のレコードなどをきくと(SONC一〇〇三九)、ただもう圧倒され、溜息《ためいき》が出るばかりである。このオーケストラなら、トスカニーニがよくやったあのベートーヴェンの『ラズモフスキー第三番』のフィナーレのフーガとか、晩年の『大フーガ』とかを弦楽合奏でやることも、悪趣味とだけで片づけられなくなるだろうと予想される。
 セルの名は、この管弦楽団をここまで育てたというだけでも、指揮者の歴史から消えることがないだろう。
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