【頭の中将の】~第八十二段(三)

(三)

 皆寝て、つとめて、いととく局(つぼね)に下(お)りたれば、源中将の声にて、「ここに、草の庵やある」と、おどろおどろしく言へば、「あやし。などてか、人げなきものはあらむ。玉の台(うてな)と求めたまはましかば、いらへてまし」と言ふ。「あなうれし。下(しも)にありけるよ。上にてたづねむとしつるを」とて、昨夜(よべ)ありしやう、「頭の中将の宿直所(とのゐどころ)に、少し人々しきかぎり、六位まで集まりて、よろづの人の上、昔今と語りいでて言ひしついでに、『なほこの者、むげに絶え果ててのちこそ、さすがにえあらね。もし言ひいづることもやと待てど、いささかなにとも思ひたらず、つれなきもいとねたきを、こよひ悪(あ)しともよしとも定めきりてやみなむかし』とて、皆言ひ合はせたりしことを、『ただ今は見るまじとて入りぬ』と、主殿司が言ひしかば、また追ひ返して、『ただ、袖を捕らへて、東西せさせず乞ひ取りて、持て来。さらずは、文を返し取れ』と戒めて、さばかり降る雨の盛りにやりたるに、いととく帰りたりき。『これ』とて、さしいでたるが、ありつる文なれば、返してけるかとて、うち見たるに、あはせてをめけば、『あやし。いかなることぞ』と、皆寄りて見るに、『いみじき盗人を。なほえこそ捨つまじけれ』とて見騒ぎて、『これが本つけてやらむ。源中将つけよ』など、夜ふくるまでつけわづらひてやみにしことは、行く先も、必ず語り伝ふべきことなり、などなむ、皆定めし」など、いみじうかたはらいたきまで言ひ聞かせて、「御名をば、今は草の庵となむつけたる」とて、急ぎ立ちたまひぬれば、「いとわろき名の、末の世まであらむこそ、口惜しかなれ」と言ふほどに、修理(すり)の亮則光(すけのりみつ)、「いみじき喜び申しになむ、上にやとて参りたりつる」と言へば、「なんぞ、司召(つかさめし)なども聞こえぬを、何になりたまへるぞ」と問へば、「いな、まことにいみじううれしきことの、昨夜はべりしを、心もとなく思ひ明かしてなむ。かばかり面目(めいぼく)なることなかりき」とて、初めありけることども、中将の語りたまひつる、同じことを言ひて、
 
(現代語訳)
 
 みんな寝て、翌朝、自分の部屋にたいそう早く下がっていると、源中将の声で、「ここに草の庵はいますか」と仰々しく言うので、「変ですね。どうしてそのような人間らしくない名前の者がおりましょうか。玉の台とお尋ねでしたら、お返事もいたしましょうに」と言った。頭の中将は「ああうれしい、下の局にいたのですね。上の局に尋ねようとしていました」と言って、昨夜あったことを語った、「頭の中将の宿直所に、少し身分のある者が皆、六位の蔵人までが集まって、いろいろな人の昔や今のことを語り、頭の中将があなたのことを『やはりこの人は、まったく絶交したというものの、そのまま放ってはおけない。ひょっとして向こうから言い出すかと待っているが、少しも気にかけず平気でいるのもずいぶんしゃくなので、今夜、良かれ悪しかれ、どうするか決めてしまおう』と言って、皆で相談したあの手紙を、『今すぐは見ないといって引っ込んだ』と主殿司が伝えたので、また追い返して、『とにかく袖をつかまえてでも、有無を言わさず返事をもらって来い。そうでなければ手紙を取り返せ』と強く言い聞かせて、あれほど降る雨のなかを遣ったところ、えらく早く帰ってきた。『これです』と言って差し出したのがさっきの手紙で、返事が来たのだなと思い、頭の中将がちらっと見たと同時に叫び声をあげた、『おや、どうしたのか』と皆でそばに寄って見ると、頭の中将が『たいした盗人よ。やはりあの女を捨て置くことはできない』と言うので、皆が手紙を見て騒ぎ、『これ(草の庵をたれかたづねむ)の上の句をつけて贈ろう。源中将つけてみろ』などと、夜が更けるまで悩んだあげく、つけることができずに終わってしまい、将来にきっと語り伝えるべき話だ、などと皆で評定しましたよ」などと、ずいぶんきまりが悪くなるほど私に言い聞かせ、「あなたのお名前を、今では草の庵とつけています」と言って、急ぎ立ってしまわれた。私は「とてもみっともない名が後世まで伝わるのは残念」と言っていると、修理の亮則光が「すばらしいお祝いを申し上げるために、上の御局におられるかと思って参上していました」と言うので、「何ですか。司召の除目などがあったとも聞きませんが、何におなりになったのですか」と尋ねると、「いやもう、まことにすばらしくうれしいことが昨夜ありましたのを、早くお知らせしたいと待ち遠しく夜を明かしましたよ。あれほど名誉なことはありませんでした」と言って、最初からのいきさつを、源中将がお話になったのと同じことを言い、
 
(注)修理の亮則光 ・・・ 橘則光。日ごろ兄妹と呼び合っていた。長男の則長は清少納言との間にできた子といわれる。
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