やさしい季節29

 別世界

 
 向こうもずっと捜していたのだろう。
 克子がエレベーターから宴会場のロビーへ歩み出ると、黒木翔がパッとソファから立ち上がるのが見えた。
 その瞬間、克子はこのまま逃げ出してしまいたい衝動にかられた。——普通のワンピースに、くたびれたコート。
 別に、貧しいことを恥じるわけではないが、いかにも場違いな気がしたのである。宴会場のクロークには、毛皮のコートを山と積み上げて預けている、いかにも「上流夫人」たちの姿が見えた。
 コートを上のクロークに預けて来れば良かった、と悔やんだが、もう遅い。
「いらっしゃい」
 と、タキシード姿の翔がやってくる。
「来ちゃったわよ」
 と、克子はいたずらっぽく笑《え》顔《がお》を作って、「お似合いね」
「コート、僕、預けて来ます」
「でも……。係の人がびっくりするわ、あんまりボロで」
「そんなこと言って! さ、脱いで下さい」
「ええ」
 克子はコートを脱いで、翔に渡した。こうなったら、覚悟を決める他はない。
 しかし、翔がさすがにタキシードを着こなしているのには、感心した。慣れているから、といってしまえばそれまでだが、スキーウェアの翔と比べると、少し大人びて見える。
「パーティーの開始が少し押してるんです。親《おや》父《じ》が遅れてて。控室に行きましょう」
「ねえ、私、こんな格好で——」
 やはり、ロビーで談笑している女性たちは、和服だったり、長い裾《すそ》のドレスだったり。克子は、何だか「受付の女の子」という雰囲気だった。
「構やしませんよ。ちょっと待ってて」
 翔がコートを預けにクロークへと駆けて行く。
 克子は、ロビーの真ん中に突っ立って、何とも言えない居心地の悪さを感じていた。
「——じゃ、こっちです」
 翔が案内してくれたのは、細かく仕切られた部屋の並ぶ奥の廊下。
「ここが、うちの連中の控室です」
 と、翔が、ドアの一つを開けようとする。
「待って! ねえ、待って」
 克子はあわてて言った。「どなたか——お宅の方がいらっしゃるんじゃないの?」
「いや、いません。みんなもう客の相手でパーティー会場に出てますから」
 とドアを開けると、ソファの並んだ、こじんまりした部屋で、テーブルには、コーヒーカップやお茶《ちや》碗《わん》がそのままになっている。確かに、そこには誰《だれ》もいなかった。
「片づけてないな。——何か頼みますよ。コーヒーか紅茶か……」
「じゃあ、紅茶を」
 何か頼まなきゃ悪いようで、克子はそう言った。
 控室で一人になった克子は、まるで迷子の子供のような心細い気分だった。
 やはり、来るんじゃなかった。そう思っても、もう遅いが。
 翔に黙って帰ってしまうわけにもいかない。——早く、戻って来てくれないかしら。
 あのスキー場のときとは逆に、克子の方が「子供」みたいである。
 そう。落ちついて。何もこっちが押しかけて来たわけじゃない。招待されたから、来たんだ。そうよ。堂々としていればいい。
 頭ではそう思っても、無理な相談だった。
 ドアが開いて、克子はびくっとした。
 翔ではなかった。二十歳そこそこの女の子が、フワッと広がったドレス姿で、控室を覗《のぞ》いたのだ。
「あら」
 と、その娘は克子を見ると、部屋を間違ったのかと思ったらしく、ドアの外の表示へ目をやって確かめている。
 そして中へ入って来ると、
「あの……黒木翔君、知りません?」
 と、訊《き》いた。
 どう見ても自分より年下の子だと分かると、克子も多少安心する。
「すぐ戻ると思いますけど。飲み物を頼んで来るって、出て行ったんです」
 と、克子は言った。
 すると、その娘は目を見開いて、
「ああ!」
 と、克子がびっくりするような声を出した。
「あなたが翔君の言ってた人ね」
 好奇心丸出しの目で克子を見ているが、あまりに無邪気で、却《かえ》って腹も立たない。
「失礼なこと言って、ごめんなさい」
 と、その娘は笑《え》顔《がお》になると、「私、翔君のいとこで、久保泉といいます」
「石巻克子です」
 と名のって、「泉さん、っておっしゃるの」
「黒木のおじさまの妹が私の母。今、十九です。大学の一年生」
「初めまして」
 よろしく、とは言わなかった。相手がどう受け取るか、分からなかったからだ。
「大人ですね」
 と、久保泉は椅《い》子《す》にかけると、まじまじと克子を眺める。「翔君と同じ年齢? 全然見えない」
「老けてるだけ」
 と、克子が微笑《ほほえ》むと、
「そういう意味じゃなくて。本当よ! そんなつもりで言ったんじゃないの」
 元気のいい子である。そして可愛《かわい》い。美人という顔でなくても、思わず克子でも目をひかれるほど可愛い顔をしている。
「翔君とはね、小さいころからよく一緒に遊んだの。おとなしいでしょ、翔君。女の子とでないと遊べなかったのよ」
 と、訊かれもしないのに、よくしゃべってくれる。
 何だか、この久保泉という娘を見ているだけで、克子は楽しくなって来た。
 十九歳か。——克子とたった二つしか違わないが、そこには克子の全く知らない「十九歳」が、克子の通って来なかった「十九歳」があった……。
「翔君ったら、あなたの話ばっかり」
 と、久保泉は言った。「スキー場ですてきな人に会ったんだぞ、って。でも——意外だなあ」
「パッとしないから?」
「そうじゃなくて、翔君がポーッとなるんだから、もっと派手な感じの人かと思ってた。でも、凄《すご》くしっかりしてそうで、大人って感じ」
 遠慮というもののない子である。しかし、妙に裏読みしたくなることもないから、聞いていて、気楽だ。
 ドアが開いて、克子は翔が戻ったのかとホッとしたが——。
「あ、お母さん」
 と、泉が言った。
「何してるの? パーティー、もうじき始まるのよ」
「だって、おじさまが来てないんでしょ。始まりっこないじゃない。ね、お母さん、こちらがほら、翔君の『一《ひと》目《め》惚《ぼ》れ』の彼女」
 黒木竜弘の妹か。——そういう目で見るせいか、いくらか似ているようにも見えたが、タイプとしては大分違っているらしい。
 いや、むしろ正反対という印象を、克子は受けた。
「そう。——翔ちゃんは?」
 その母親は、ことさらに克子を無視しているようで、娘に訊《き》いた。
「飲み物、取りに行ったって。すぐ戻るわよ」
「じゃ、パーティー会場に来て、と言ってね、戻ったら」
「分かった。お母さん、少し休んで行ったら?」
「そんなことしてられませんよ」
 と言って、少し迷っている様子だったが、結局、克子の前に歩み出て、「久保有里子です」
「石巻克子と申します」
 と、立ち上がって頭を下げた。「申しわけありません、ご親類の方々のお部屋なのに」
「構わないんですよ」
 と、久保有里子は首を振って、「翔ちゃんはとても素直ないい子ですからね。心配してたの。それがあなたのような方をね」
「あなたのような、って何? お母さん、失礼よ」
 と、泉が口を挟んだ。
「何も悪いこと言ってるわけじゃないわ」
 久保有里子は、娘の明るさとおよそ似ていない。丸顔で、太り気味の体格を、ウエストを絞らないドレスで隠している。
 その目は笑っていない。克子には、よく分かった……。
「どうぞ、かけてらして」
 と、久保有里子は言った。「翔ちゃんも、じきに戻るでしょう」
 克子は言われるままに、ソファに元通り腰をおろした。
「兄とお会いになった?」
 と、有里子が訊いた。
「スキー場でお目にかかりました」
 何かお世辞らしいことの一つも言うべきかもしれない。
「光栄でした」とか「信じられないようで」とか。
 しかし、こんなときには、克子の気骨のあるところが前面に出る。こっちには何も感激する理由などない。悪い人ではないと思ったが、それ以上ではなかった。
「そう」
 と、久保有里子は素っ気なく言って、「今日のパーティーには、うちの親族がほとんど顔を揃《そろ》えます。そのおつもりでね」
「はあ」
「何か——もう少しパーティー向きのお洋服だと良かったわね」
 克子は、そんなことで傷つきはしない。
「自分のことはよく分かっていますから。急にすてきなドレスを着ても、身につかないと思いまして」
 と、言ってやった。
「それはそうね。お勤めなんでしょ?」
「そうです」
「ご苦労様ね。じゃ、またパーティーで」
「はい」
 余計なことは言わない。——これは克子が人生から学んだ知恵だ。
 久保有里子が控室を出て行くと、娘の泉が、ため息をついて、
「本当に、お母さんったら……。ごめんなさい。感じ悪かったでしょ?」
「いいえ、ちっとも」
 と、克子は微笑《ほほえ》んだ。「普通のOLには、それにふさわしい格好ってものがあるわ」
「私、何となく分かる。翔君があなたにひかれたのが」
「ひかれた、って……」
 克子は、ちょっと首を振って、「特別なことだと思わないで。今夜も、どうしようかって、ずいぶん迷ったの」
「でも、来なかったら、翔君、きっとがっかりしたわ」
「もっとがっかりするかも。私のこと、よく知ったら」
 そこへ、ドアが開いて、
「ごめん、遅くなって」
 と、翔が入って来た。「ジュースしかなくて。待ってたら、きりないから、持って来た。あれ、泉、いつ来たんだ?」
「ついさっき」
 翔は、ジュースのグラスを、克子の前に置いた。克子は、それを手に取って、言った。
「ありがとう」
「スキー、行ったのかい、泉も?」
 と、翔が訊く。
「大学の仲間とね」
 と、久保泉が膝《ひざ》をかかえ込むようにして、「でも、いい男はいなかった」
 翔はちょっと笑って、
「親父、遅れてるんだ。いつも人が遅れると、ぶつくさ言うくせに」
「今、母が——」
 と、泉がチラッと克子へ目をやる。
「叔母さんと? そうか」
 翔は心配そうに克子を見た。どうやら、どんな風に克子に接したか、見当がついているようだ。
「今日は何人ぐらい集まるの?」
 と、克子は話題を変えた。
 翔がホッとした様子で、
「五百か六百か……。そんなとこだろうと思うよ」
 と言った。「気楽にしてて。料理がどうせ余るから、食べててくれりゃいいんだ」
「もったいないわねえ。タッパーウェアに入れて、持って帰りたい」
 と、つい本音が出る。
 そこへドアが開いて、
「父さん」
「何だ、何してる。——みんなどこだ?」
「何言ってんの。もうパーティー会場の方にいるよ」
「そうか。覗《のぞ》かないで真っ直ぐこっちへ来ちまった。——やあ」
 黒木竜弘は、克子に気付いて、「石巻さんでしたね。お待たせした」
「とんでもありません」
 克子は、立ち上がって頭を下げた。「図々しく押しかけて」
「いや、翔の奴が図々しくお招きした、という方が正確だ。そうだろ。泉ちゃん、母さんはどうした?」
「先にパーティーへ出てます。それからおじさま、『泉ちゃん』はやめる、って約束よ」
 と、泉がにらむと、
「そうだったか? じゃ、『泉!』と呼び捨てにしようか」
「いいわよ。そんなことばっかり言ってるから、若い子に嫌われるんだ」
 二人のやりとりを聞いていて、克子はごく自然に微笑んでいた。黒木はこの娘を可愛がっている。それは見ていてよく分かった。
「——さあ、行こう」
 と、黒木はハンカチで額を拭《ぬぐ》った。
「父さん。僕がタキシードだぜ。背広じゃおかしいよ」
「そうか。タキシードはどこだ? おい、泉ちゃん、うちの秘書を捜して来てくれんか。全く、気のきかん奴だ!」
 黒木が服を脱ぎ出すのを見て、翔があわてて、
「父さん! 彼女の前だよ!」
 と、止めた……。
 
 克子は、人いきれで部屋の温度が上がりそうな混雑の中に立って、却《かえ》って気楽にパーティーの客を「観察」していた。
 克子の勤める会社でも、たまには「パーティー」なるものを開くことはあるが、もちろん克子のような女子社員は受付とか荷物の預かりの係。会場の中へは入らないのが普通だ。
 それに、入ったところで、できるだけ「ケチ」に徹しようというのが克子の勤め先の方針。大した料理など出るわけもない。
 しかし——ここはまるで違う。
 今、パーティーは黒木竜弘のスピーチで始まったところだった。五百人か六百人、と翔は言ったが、この人数は、とてもそんなものじゃないだろう。
 黒木竜弘のスピーチは、いかにも手慣れて、自信に満ちたものだった。大して内容のある話じゃないのだが、それでも聞いている方は、「あの」黒木竜弘の話、というだけで、ずいぶんためになることを聞いたような気がしているのだろう。
「——では乾杯の音頭を」
 と、司会者が、誰《だれ》やらえらく年齢《とし》をとって、足下も覚《おぼ》束《つか》ない感じの老人を呼び出した。
 ジュースを飲んでいるらしいが、グラスを落っことさなきゃいいけど、と克子は心配になった。
「克子さん」
 翔が人の間をすり抜けてやって来る。「グラスは?」
「あ、私、だって……」
「乾杯だよ! さ、これ」
「何、これ?」
「ウイスキー。薄いから」
「ありがとう」
 と、克子は言った。「ね、翔君、あの方はどういう方なの?」
「乾杯の音頭をとる人? あれ、僕のお袋の方のお祖父《じい》さんさ」
「へえ。——大丈夫?」
 本当に、今にも倒れそうだ。
「去年、軽い脳《のう》溢《いつ》血《けつ》で倒れてね。それ以来、思うように体が動かないんだ。でも、どうしてもやるって、自分で言うもんだからね」
 その老人は、長峰隆三郎という名前だった。たぶんこの企業にとっては大事な人なのだろう。
 乾杯の言葉も、舌がもつれて、よく聞きとれない。克子は、周囲の客の間に忍び笑いが広がるのを聞いていた。
 ——人は、いつか自分も老い、死を迎えることを、つい忘れがちだ。もちろん、翔のように若ければともかく、はた目には「老い」がそう遠くない壮年の人たちにも、「老い」など自分とは関係ない、と思っている人がいる。
「乾杯!」
 その一言だけは、長峰隆三郎もはっきりと発声した。
 会場が、それでやっと解放されたという様子でざわつき始める。
 司会者が、
「では、お料理も充分にございますので、お時間の許す限りご歓談下さい」
 と言ったときには、もう誰もが食べ始め、ザワザワとおしゃべりがあちこちで始まっている。
「遠慮なく取って食べてね」
 と、翔が言った。「お寿《す》司《し》やうなぎの屋台が出てるだろ。あれ、すぐなくなるよ。並んでも食べた方がいい」
「ありがとう。そうするわ」
 せっかく翔が招《よ》んでくれたのだ。ここは充分に楽しまなくては申し訳ない。
 お寿司のほうは大変な人だかりなので、多少楽そうな、うなぎの方へ並んだ。小さな器に一口かば焼きとでもいうのか、うなぎとご飯。びっくりするほどおいしかった。
 近所のおそば屋さんから取る出前とは、大分違うわね、と克子は思った。
 人が多くて、食べているとぶつかりそうになるので、克子は少し壁の方へ寄ることにした。
 壁ぎわには、椅《い》子《す》も並べられて、少し高齢の人は、座り込んで食べている。もちろん克子は立って食べていたが……。
 ふと気付くと、すぐそばの椅子に、さっき乾杯の音頭をとった長峰隆三郎という老人が座っている。
 何も食べても飲んでもいない様子だ。
 たぶん、誰か面倒をみる人がついているのだろう、とは思ったが……。
「あの——」
 と、克子は、少し大きめの声で、身をかがめて言った。「何か召し上がりますか? お持ちしましょうか」
 長峰は、ゆっくり顔を上げて、克子を不思議そうに見ると、
「あんたは……有里子んとこの娘さんだったかな」
 と、言った。
「いえ、違います。ただの——客ですけど」
「ああ、そう。いや、結構だね」
 笑《え》顔《がお》が柔和である。克子も自然に笑顔になった。
「そばがあったら、一杯——」
「おそばですね。あっちに確か。お待ち下さいね」
「すまんね」
 克子は人の間をすり抜け、手打ちそばをお碗《わん》に入れて出す
屋台の所へと急いだ。割りばしとお碗を手に、長峰老人の所へ戻ると、老人は、目を閉じ、頭を傾けて、眠ってしまっている様子だった。克子は苦笑したが——ふと、笑みが消えた。
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