黒田如水06

 沐浴

 
 湯殿口のわきに、筧《かけひ》の水がとうとうと溢れている。鵲《かささぎ》のように行儀わるく辺りへ水を跳ね散らしながら、そこでごしごしと顔を洗っている者が官兵衛であった。
「——手拭。手拭」
 頤《あご》の先から雫《しずく》をこぼし、後ろを向いてこう喚《わめ》くと、いま用の済んだ剃刀《かみそり》を盆にのせて、脱衣部屋の隅棚へ立って行った小坊主が、あわてて駆け戻って来て彼の前に手拭を捧げた。
 そこへ最前の室木斎八が橋廊下の彼方にまた姿を見せて、
「ご家老。おはやくお臨み下さい。ご評議の席は、いつまで埒《らち》もなく、ただ誹《そし》り口《ぐち》や争論ばかりで収拾《しゆうしゆう》もつきません。殿にも、唯ひたすら、あなた様だけをお力としておられるらしく、しきりとお待ちかねでございます」
「いま参る。いま参る」
 官兵衛は板敷に坐って、小坊主と対《むか》い合い、ひどく腫れ上がって来た左の瞼へ、膏薬《こうやく》を貼《は》らせていた。さっき太鼓櫓で蜂に刺された痕《あと》である。
「よし、よし」と小坊主をねぎらい、やおら起ち上がって橋廊下を渡って行った。そして縁づたいに幾巡《いくめぐ》りしてようやく評定の間へもどって来た。
 陽に遠いので、夏の日も涼しくはあるが、洞然として中は薄暗い。夜来《やらい》の惰気《だき》と昏迷《こんめい》を、むうっとするばかり澱《よど》ませている。そしていま議論も尽き果て、さっきから官兵衛の誹謗《ひぼう》ばかり並べていた老臣以下の面々は、とたんに黙りこんで、敢《あえ》て眸《ひとみ》もうごかさず、官兵衛が着席する様子をも強《し》いてみな無視していた。
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