第十九章:中国考古~曾侯乙墓及び編鐘

 古本の記載によると、中国古代の統治階層は、音楽を非常に重視し、詩は人々の精神に影響を及ぼし、礼儀を知ることは、人々の行為を規範化することから、国にとって美しい音楽があることは、隆盛のシンボルだと主張しています。よって、その音楽が良いかどうかで国の盛衰が判断できるのです。1978年、中国中部の随州市の墓から大型な青銅編鐘が出土し、国内外で注目されました。この発見は実物から典籍の記述を立証し、人々が中国古代の社会文明を理解することに新しい証拠をもたらしました。 

 
 1978年2月、湖北省随州市郊外の工事現場で、普通の土とは異なる「暗色土」が突然発見されました。「暗色土」とは、地層の中で積って埋蔵された人類活動の遺跡を指すものです。このことは考古においての新たな発見となりました。東西長さ21メートル、南北広さ16メートルの古墓が発掘されました。墓室を開けると、巨大なうわ柩の上に大きい板石47枚がかぶさっており、この板石を重機で吊り移動してみると、深さ約3メートルの水溜りがあり、水面の上には柩木が浮かんでいました。考古学者は水をくみ上げながら、柩木をきれいに整理したところ、世界を驚かせる文物が現れました。さらに発掘し整理すると、中には合わせて1500万件余りの文物が出土し、青銅器、楽器、兵器、車馬器具、金器、玉製の器具、竹製の器具なども出土しました。多くの器物は造型が奇異で、形象は迫力があり、紋飾りは華やかで美しく、非常に豪華でした。すべての文物の内、最も注目されたのは65件の青銅器編鐘です。 
 
 これらの編鐘は、今までに発見されたものの中で、最も大きな古代楽器であると同時に、青銅の鋳造工芸や楽器のすぐれた技術を併せ持つ、すばらしいものでした。編鐘は形状によって、大小と音の高低の順序で8組に分けられ、その内、最大の鐘は高さ153.4センチ、最小のものは高さ20.4センチ。その全体の重さは2500キログラムに達していました。これらの編鐘は、銅と木を混同した3階立ての鐘棚にかかっており、鐘の上に古い篆書銘文が合わせて2800字余り彫られています。その音を測ると、1つの鐘は2つの音質を出すことができ、音律も正確で、音色が美しく、今日でも各種の曲調を演奏することができるということです。 
 
 考証によると、この古墓は、戦国時代の曾国の貴族である曾侯乙の墳墓であると専門家は認定しました。曾侯乙とは、文字から解釈すると、曾国の「乙」という名前の王侯だという意味です。墳墓の中の銘文や炭素14による測定に基づいて、専門家は、この墓の主人が埋葬された年代は紀元前400年ごろだったことを知りました。 
 
 曾侯乙墓は、地下水の下にあるため、埋葬後まもなく、地下水が墓内にしみ込んで、副葬品が長年にわたって水中に浸食されていましたが、このことから墓内の宝物が墓盗者に盗まれなかった、ともいわれています。 
 
 曾侯乙墓の発掘が終了した後、地元政府は専門の博物館を設立しました。そこに墓内から出土した文物を収蔵・展示し、「曾侯乙墓の遺跡」を復元し、「編鐘陳列館」を設けました。また、編鐘を使っての楽隊を組織し、人々に昔の音楽を伝えています。
分享到:
赞(0)