「しるし」

  今朝、顔を洗うとおでこの辺りに違和感があり、鏡を見てみるとやはりにきびがあった。それも、けっこう大きい。仕方なく今日は前髪に分け目を作らずにヘアアイロンをあてた。家に帰ったら潰(つぶ)して薬を塗ろう。気分が落ちるのと一緒に食欲も失(う)せてしまって、ろくに食べないで家を出た。後ろからお母さんが何か言っているのが聞こえて、たぶんほとんど残してしまった朝ごはんのことだろう、小さな声で、「わかってるよ」と言った。

 外は雨が降っていた。青に赤い縁取りの傘はお気に入りで、いつもならさせば雨もおしゃれに思える。でも今日はただの傘だった。じっとりと湿った空気と生臭いにおいに、思わず顔をしかめる。水たまりは避けて歩いているつもりでも、知らないうちにローファーに雨が染み込んできた。だけどそれも、しばらく手入れをしていなかったしちょうどいいかもしれない。埃(ほこり)っぽいバスに乗り込んで、入り口のすぐ後ろの座席に座った。窓の外を見ると、黄土色に曇った北上川がざぶざぶと流れている。岩手山は怪しく雲に隠れていた。広い広い北上川の上をゆっくりと通り過ぎて、車内に視線を戻す。すると斜め前の制服を着た女の子と目が合って、すぐに向こうから逸(そ)らされた。それで私もハッとする。前髪に手をやると外で風に吹かれたせいか少し乱れていて、慌てて乱暴に整えた。……にきび、見てたのかな。自意識過剰だとわかっていてもそう思わずにはいられない。誰にも気づかれないように、細く長くため息をついた。
 雨粒をいくつも付けた窓ガラスに、今の私が映っている。だるそうに開かれた目、唇の辺りがむすっとしていて可愛(かわい)くない。ぶさいくな私の上を通り過ぎる、雨の盛岡の景色。ごっ、と小さな音を立てて、窓ガラスに頭を押しつけた。にきびがおでこに一つ付いているだけで、どうしてこんなに憂鬱(ゆううつ)だろう。
 思えば小さい頃は、にきびに酷(ひど)く憧れていた。少女漫画の主人公が鏡でにきびをじっと見つめた後、小さくため息をつく姿はとても大人びて格好いいものに思えたし、好きな男の子にそれをからかわれたりしているのも羨(うらや)ましかった。小学六年生になり頬にそれらしい赤いでっぱり(できものと呼べる大きさではなかった)ができた時、私の目には鏡の中の自分がいつもより新しく、素敵(すてき)に映った。にきびはいじると良くないということは調査済みだったから、必死でそのでっぱりを引っ掻(か)いて、わざわざ好きな男の子に見せに行ったりもした。だけどそのでっぱりは次の日はきれいさっぱりなくなっていて、肩を落としたのを覚えている。私だけの、特別なしるし。当時はにきびのことを、そんな風に思っていた。
 その夜、家に帰ってもいつも通り潰してしまおうという気持ちになれなくて、おでこを剥(む)き出しにしたまま洗面所で鏡の中のにきびをじっと睨(にら)んだ。──私だけの、特別なしるし。白く膿(う)んだそれにそっと指先をあてると、ビーズのようにぎゅっと硬くて、憎たらしいような、だけどいじらしいような不思議な気持ちになる。そして私はまるで自然に蛇口に手を伸ばしていた。ばしゃばしゃと顔を濡(ぬ)らして、薄緑の石鹸(せっけん)を丁寧に泡立てる。途中、今朝の女の子のことを思い出してたまらなくなりながら、にきびを撫(な)でるようにして顔を洗った。畳まれたばかりの、まだ外の匂いが残っているタオルで顔を拭いて、もう一度鏡を見る。私はにきびを潰さないことにした。にきびは青春のシンボルだ、という言葉を聞いたこともある。今朝のあの苦い気持ちも、今だけの、私だけの、特別なしるしなのだ。
 次の日鏡の前に立つと、いくらかましになったにきびに思わずにんまりとした。私はまた薄緑の石鹸で丁寧に顔を洗い、ふと思い立って洗面所の窓を開けてみる。すると朝の冷えた空気が流れ込んできて、まだ湿っている肌をひやりと撫でていった。昨日とは打って変わって晴天だ。青く高く、からりと晴れている。くっきりと像を結んだ岩手山は、なんだか満足そうに見えた。新しい空気を吸い込んで、ヘアアイロンの電源を入れる。
 今日は自転車で学校に行こう。きっと前髪は風に捲(めく)れて、おでこのしるしを見せびらかしながら。しゅるんと袖を通した制服の紺色が、いつもより明るく見えた。
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