「春の雨」

  紺色の折りたたみ傘に雨粒が着地する。わたしはそれが他の季節とは違って、静かですこし上品であることに気づく。玉になった雨粒は少しずつ周りとくっついて、ふと、重さに耐えかねてしゅるしゅる傘から滴ってゆく。せっかちな歩みをすこし遅くして息を吸うと、すりたての墨のようなにおいがして心地良い。天気予報が上手に当たり、お昼から詩的な雰囲気を醸し出して盛岡は濡(ぬ)れている。わたしは書店まで歩きながら先ほどのことを思い出した。

 教科書を買うついでに、せっかくここまできたのだからと盛久ギャラリーに足を延ばした。今日は天然石のアクセサリーの企画と常設展らしい。雨の雰囲気のなかで白と黒に統一された建物に入ると、すこし気取って、いつもは書かない記帳なんかをしてみる。前に書いている来場者の字が上手(うま)いことと、入るときに折りたたみ傘を触ったせいでペンを握る手のひらが湿っていた。
 透き通ったガラス細工や繊細に濁った天然石のアクセサリーが白い壁によく映え、照明に反射してきらきらしている。わたしは(年を重ねないと、まだまだ似合わないかもしれない)と思いながら、腰を屈(かが)めてそれを見ていた。常設展で版画を見ていると、何度かお話をして顔見知りになった盛久の館員の女性が解説をしてくれた。今日はそこにもう一人、その女性よりもお年を召した女性がいた。この二人は母子で、お母様は普段東京に住んでいるのだという。パープルのニットを着ていて、笑うと目尻の皺(しわ)が幸せそうに浮かび上がる人だった。娘さんが「あなたくらいの若い人が来てくれると嬉(うれ)しいものよ」と微笑(ほほえ)むと、その母子はそっくりな顔でふっくらと笑った。雨の中で歩くことは気が進まなかったけれどやっぱり来てよかったと思う。
 「お名前、れおんちゃんって言うの?」
 記帳を見た娘さんに尋ねられる。わたしはこの瞬間いつも、(来たか)と思う。そうして少し緊張し、申し訳なさそうな顔をして、滑舌に気を配りながら言う。
 「いいえ、あの、れいんって読むんです」
 わたしは自分の名前が好きだ。誰かに名前の由来を聞かれると必ず「生まれた朝に雨が降っていたから」と答える。気恥ずかしいくらいポエティック、だけど誇らしい。両親にはそれだけでなく思いがいろいろあるようだけれど、説明するのはややこしい。
 「透き通るように、おしとやかに育つ予定だったのよ」
 と母は笑う。確かに名前負けだが余計なお世話である。それでもわたしは、この名前が好きだ。我ながら、埋もれず小洒落(こじゃれ)ていると思う。この名前で十七年間生きてきたものだから自分にはこの名前以外しっくりこないような気がするし、それはあたりまえだろう。自分の名前が心から嫌いな人なんていない。
 わたしが名乗ると、笑われたり、感心されたり、奇妙がられたり、難癖を付けられたりいろいろだ。「いい名前」と言っておきながらその人が不服そうな顔をする度、悲しかった。上手く聞き取ってもらえずに最後まで勘違いされてしまうこともある。いくら気に入った名前とはいえ、そんなわけで自己紹介は毎回苦戦するのだった。
 「びっくりしたけど、素敵な名前。生まれた日は雨だったの?」
 だから、娘さんが雨の降り続く外を見ながらそういってくださったとき、わたしはうれしかった。何かが救われたような気がしたのだ。由来まで当てられたのは初めてだったかもしれない。びっくりした、という言葉も新鮮だった。なるほど、あの顔は不服だったのではなく、驚いていたのかもしれない。わたしはそれからまた二人と談笑し、帰るときには次の企画展の案内までいただいて、すっかり満たされた気分で盛久を後にした。
 信号待ちをしながら、もらった案内片手に考える。平成生まれの変わった名前の流行が話題になっていると、いつも心が痛い。確かに違和感があるかもしれないけれど、それを批判するときは気をつけてほしい。そこには心をもった生身の人間がいるのだから。わたしはその論争を、違う時代の流行同士がぶつかり合っているだけだと感じる。例えるならゴールデンレトリーバーとチワワだ。どちらも愛(め)でればよい話ではないか、と。
 信号が青になってわたしは歩き出す。春の雨が繊維のような直線を描いて、横断歩道の白にも黒にも等しく降っている。コンクリートも街路樹も自動車もカラスも、優しい雨に濡れてつやつやしている。文房具店の飾り窓は桜の花びらがモチーフになっていて、わたしは急ぎ足になる。そう、もうすぐ四月だ。わたしは高校三年生になる。雨を吸って一層鮮やかになった土の、山の、川の、いきもの達の、その健康的な空気を全身で感じながら自然に口角が上がる。紺色の折りたたみ傘がやわらかい風に乗ってふわりふわりと右手を引っ張ってわたしを急(せ)かす。
 しっとりとした午後四時の盛岡をゆく。わたしはやっぱり、雨が好きだ。
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