「熊さんの杉」

 冬の山は静かで山鳥が長い尾を引きずりながら、悠々(ゆうゆう)と歩いていた。

 樹齢五十年以上の杉を伐採すると決めた夫は、山の下見に休日を充てた。森林組合の八幡さんも一緒だった。
 その朝、どこまで伐採するかなぁ、と思い悩む夫に「全部伐(き)ったほうがいいよ」と助言のつもりでつい口に出した。台風や雪が降るたびに、伸びた枝が近隣の住宅に被害を及ぼさないようにと常々思っていたので、全部伐ってしまった方がこの先安心と軽く考えてのことだ。
 余計なことは言うな、という目で私を一瞥(べつ)し夫は黙りこんだ。植えたのは俺(おれ)だぞ。家族総出の作業はもちろんのこと、嫁いだ姉夫婦や親戚(せき)も手伝う大仕事だった。当時の苦労を思えば、決断がつかないまま山に入ったことは十分察しがついた。
 「口を挟むなよ」ぼそりと念を押した。
 整然と並ぶ杉林の中で歩を止めた八幡さんが木を指差し「この場所の植林をしたのは熊さんだね、見れば分かる。若い頃(ころ)、熊さんから山仕事のノウハウを一から教えられた。あの人はすごかったんだぞ」と言って、私を手招きした。
 指差す先のむこうに見える杉は山頂に向かってまっすぐに植えられていた。間隔を置きながら見事に成長した木々。これだけの植林にどれほどの労力を要したのか。どんなに難儀な作業だったのか、この場に子どもたちを呼んで見せたい、と静かな感動に包まれた私は在りし日の熊さんを想(おも)った。
 熊さんは義姉の親戚に当たり、八十歳を超えても山仕事を続けた口数の少ない控えめな人だった。我が家では熊おんちゃんと呼び、山の管理においては全幅の信頼を寄せることができる人だった。彼が苗木を背負い植えた山はいずれもりっぱな森に成長した、と八幡さんは懐かしそうに語った。一本の苗木も枯らしてはならぬ。人も木も水が欲しいのは同じこと、と仕事には厳しく頑固な人だったという。
 熊さんは朝早く打ち合わせに来たものだった。「起きだべが」。声が聞こえると寝坊な私は飛び起き、あわてて湯を沸かし始める。見かねた義母に「お茶っこを早く出さねば」と叱(しか)られたことが度々あった。
 日の出とともに起き、日没とともに休む生活で朝六時過ぎには弁当を持って家を出る。どんな所にも徒歩で行った。細身の引き締まった体で足早に歩く人だった……。
 熊さんが成長したこの林を見たら何と言っただろうか。考えながら歩いていると先に行ったはずの夫が倒木に腰掛けていた。少し疲れたからこの先は二人で見回るようにと言い、沢沿いの様子も見てくるようにと言った。
 その時から間もなく夫が病に倒れた。なぜ様子がおかしいと気がつかなかったのか、なぜ病院にいくことを勧めなかったのか。思えば前兆はあの時からだったのかもしれない。私は自分の無知を責め、悔いた。
 入院中の夫に代わり杉の売買に立ち会うことになった。夫たちや熊さんが苦労して育てた木を売ることへの後ろめたさがなかった訳ではないが、このままにしておくことはできない。いずれは芯から腐り始めやがて木材としての価値は失われる。そんな現実と葛藤(かっとう)しながら立ち会いを終えた。
 伐採する量は半分となった。山は杉の林としての形は残ることになった。
 残った木で家を直したい。家に戻りたいと言う願いを叶(かな)えるためにも、退院するまでには熊さんが植えた木で、夫たちが汗して植えた杉で、家を直しておこう。決心は固まった。
 だがどんな方法で目指す改築にこぎつけられるか、皆目見当がつかなかった。
 思いきって山から木を切り出してほしいと八幡さんに相談をした。彼はもろ手を挙げて賛成し、地元の木が活(い)かされるなら力になると言い、ぜひ熊さんが植えた杉を活用してほしいと八方に手を回してくれた。
 三月の大雪の日から数日後、チェーンソーの音が山に響いた。木の選定から伐採の作業員も製材所も手配してもらった。先代が造った家を二代目の息子さんがバリアフリーに改築してくれる工務店は、製材所から運ばれた木を時間をかけて乾燥してくれた。
 心材の黒っぽい杉も赤みを帯びた杉も、柱となり梁(はり)となり、床板にそして壁材用にと加工され家の中に納まった。
 所々に節がある壁をなでていると、力を貸してくれた人たちのぬくもりが伝わってくる。数カ月に及ぶつらく苦しいリハビリに耐えた夫を迎える準備は整った。
 再び以前と同じ暮らしに戻れる私たちに、数十年余りの長い時を大地に根を張りたくましく成長した熊さんの杉が、樹木に宿るという精霊たちが「がんばれよ」と静かなエールを送ってくれているような気がしてくる。
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