「リッチモンドの風」

 飛行機は不意に翼を傾けた。
 雲が回り、窓の光が傾く。かすむ地平線がせり上がり、切れ切れに流れる雲の下に茶色い地表が現れた。焦点が合うと、広大なトウモロコシ畑の中に、薄緑の煙る森、緑の牧草地、点在する白い家、それをつなぐ線を引いたような道が見えた。
 旋回を終えた50人乗りの小型ジェット機は、西の太陽に向かってしばらく進み、下降を始めた。エンジン音がオクターブ下がり、足元で主脚の出た鈍い音がした。機はデイトン空港に降りようとしていた。
 私たち「アーラム大学・ホストファミリー会」の4人は、ホームステイをした学生の卒業式に出るために、デトロイトから飛行機を乗り継いできた。
 大学のある町、リッチモンド(インディアナ州)はここから西に60キロ、オハイオ州との州境を越えるとすぐである。空港には迎えの車が来ているはずだ。
 飛行場から高速道路を西に進む。太陽が暗い地平線に沈もうとしていた。そこから車のライトがわき出て連なり、列は波打って向かってくる。まだ明るい空は地球ごと包みこむような広い空であった。
 明日は大学を表敬訪問して、夜は先生方と会食。3、4日目に、大学内の見学、歓迎パーテイなどの予定が組まれ、近郊も案内してくれるという。卒業式は5日目である。
 「ホームステイをやってみませんか」と、誘われたのは、盛岡に赴任した年(平成8年)のことだった。翌年の夏、女子大生の家族が1人増え、4カ月あまりを一緒に暮らした。帰ってすぐに、クリスマスカードが届いた。
 ホームステイは3年続いた。4年目も続けるつもりだったが、妻が体調を崩してそれを辞退した。翌年に妻は逝った。
 ホームステイを引き受けることはもうないだろう。そう思いながらも「会」のメンバーには残り、毎年来る学生の受け入れと盛岡での生活を手伝ってきた。
「リッチモンドはどんなところ」
 いつかは行ってみたいと問う妻に、3人の学生は同じように言っていた。
「何もないところです。でも、とてもいいところです」
「必ず行くね」
 妻は、いつもそう応えていた。
 気候は盛岡とほぼ同じで、広い畑の中にある古い町。私の知識はそんな程度だが、妻は、もっと多くの知識を得ていただろう。
 3日目。郊外をまわって、丘の上の旧家を訪ねた。西部開拓史時代の建物だが、その豪華さに圧倒され、ひと息つきに外に出た。芝生で遊んでいたリスが幹を駆け上がり、胸の黄色い鳥が木々の間を飛び交っていた。
 畑の向こうに林が見える。若緑、黄緑、抹茶色の木々が盛り上がってどこまでも続く。手前の畑に、トウモロコシの根元が刈り残され朽ちている。畑は左方にうねって広がり、空と接していた。まだ作業が始まっていない畑に、動くものはなにもない。
 畑の上を風が渡ってきた。
 少し冷たい風だが、そよぐ風でも、通り風でもない。乱れることも、巻くこともなく、頭上の木の葉を少し揺らすだけの流れる風だ。風は、空と地平線の間から、ここが拓(ひら)かれるずっと前、太古から吹きつづけているような力強い風であった。
 風に向かって立つと、詩のフレーズがうかんだ。
  私のお墓の前で泣  かないで/私はそ  こにはいないのだ  から 私は眠って  なんかいない/私  は千の風となって  渡ってゆく
 「千の風になって」の3行である。詩の原作者といわれるメアリー・フライは、私たちが降りた飛行場のある町、デイトンに生まれた。12歳までそこに住んでいる。きっと、彼女もこの風を感じて育った。その原体験があの詩を生んだに違いない。
 風は、遠い過去の記憶も運んできた。
 渡る風に、テーブルをはさんで話す妻の姿が、かすかに見えた。「必ず行くね」と話していた妻は先に来ている。そんな、なつかしさにも似た感覚が不思議であった。
 妻がリッチモンドで見たかった光景は、この光景ではなかったのか。感じたかったのは、この風ではなかったろうか。
 芝の斜面が式場だ。壇上の後ろに掲げられた50枚あまりの国旗が、木洩(も)れ日に映える。一人一人手渡される卒業証書に生徒は全身で喜びを表わし、歓声を誘う。式の最後に帽子が舞った。そのなかに盛岡で過ごした10人の学生もいた。
 昨日の卒業式と、あの風を記憶しよう。空港に向かう車の中で、私はそれを反芻(はんすう)していた。
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