「遠い嫁ぎ先」

  南に向いた日当たりの良い娘の部屋。以前は電話の声が階下まで響き、空気までもが躍っていた。部屋は何も変わらない。ただ、主を失っただけだ。ドアを開けると、かすかに空気が動き出す。「いつでも帰って来ていいよ」と言ったのに、部屋はいまだ空いたままだ。

 23歳になった娘が突如、「アメリカ人と結婚したい」と言い出した。授業料をやりくりして英会話教室に通っていたのは知っていたが、アメリカに行くためだとは夢にも思わなかった。これまでにも男友達は何人かいた。何ゆえに外国人を伴侶と決めたのか、戸惑うばかりだった。育て方に将来のそんなプログラムは無かった。
 三沢の基地でコンピューター技師をしていた彼とは、友人の開いたパーティーで知り合い、付き合いは水面下で順調に進行していたらしく、言い出せずにいたようだ。
 2月の底冷えのする夜、娘は彼を連れて来た。畳の上に正座し、メモを見ながら「お嬢さんを下さい」と口上を述べ始めた。澄んだ目、たどたどしい日本語、それだけで真剣な気持ちは十分伝わってきた。だが、できることならその場から逃げ出したい気分だった。
 夫は終始無言で困惑の表情だ。笑顔にもなれず機械的にうなずいたが、何日過ぎても現実として受け入れ難く、心変わりしてくれることに期待した。彼の人柄に不満がある訳ではなく、どうして遠くに行かなければならないのかが最大の反対要因だった。
 娘はアメリカ行きを控えているにもかかわらず、車を欲しいと言い出し、娘に甘い夫は、娘がローンを払うという条件で新車を買った。何のことはない、車は三沢に行くためだった。結局わずか6カ月ローンを払っただけだった。娘の代わりにローンが残った車を、夫は下取りに出してしまった。動かない車を見るのが辛かったのだ。
 結婚式は5月1日に決まったが、米国籍取得の関係で前年の11月に彼が迎えに来た。既にシカゴに戻り、治安の良いエリアにアパートを借りて、万全の態勢で乗り込んで来た。
 成田まで見送りに行くことにした。発車直前に夫は無言で娘の好物の寿司(すし)を渡し、走り去った。振り向きもせず後ろ姿は消えた。2人で飲みに行くことも度々ある気の合う親子なのだ。その楽しみも消えてしまったという思いが背中ににじんでいるように見えた。
 娘は寿司2つを抱え、涙と一緒に口に押し込んでいた。郡山駅では泣きはらした目の義姉が、おにぎりとポテトサラダを娘に渡した。どちらも好物である。車中は会話も少なく、成田に着くまで3人で黙々と食べ続けるしかなかった。
 別れの時がやって来た。以前から欲しがっていた私のコートを羽織り、娘は泣きながら機内に消えた。
 見送りを終えても、すぐ帰る気にはなれない。ぼんやりと座り込む。戻って来るかもしれない。はかない望みを抱いて離陸の時間まで待っていたが、娘は戻らなかった。重い足取りで何度も振り返りながら、ホームの風に背中を押され帰路に就いた。
 4月29日、結婚式に出席するために私たち夫婦と息子、娘の友人2人でシカゴに向かった。いよいよかと思うと気持ちが重い。ここはもう流れに任せるしかないようだ。
 結婚式当日、異国の空は見事に晴れた。式前の写真撮影が彼の生家で行われた。プロのカメラマンは1時間以上にわたり、さまざまなポーズで、家族、友人たちを撮りまくる。それがしきたりらしい。私ら夫婦に「スマイル、スマイル」と強要するが、顔がこわばるばかりだ。それに比べてアメリカ人は器用で、カメラを向けるとすぐに笑顔をつくる。その素早さは感心するが、なぜか異様に感じる。
 彼の両親は不機嫌な私たちに、日本車に乗っているとか、時計はS社だとか声高に話す。場を盛り上げようとしているのだろうが、私にとっては不思議な発声としか思えない。早口言葉の大半は訳が分からない。頭の上を蜂(はち)が飛んでいるようで、めまいさえ覚えた。
 DJが音楽を流す会場は、ダンスあり一気飲みありと騒々しい。多少は英語を話せる息子をよそに、私たちは出された食事を口に運ぶだけの単調な動作を繰り返していた。周りには沈黙のバリアーを押し分け入ってくる者もない。たまに目にする花婿と花嫁は満面の笑みをたたえ、周囲に取り残されたような父と母だった。
 仏頂面で過ごしたシカゴでの1週間、今思うと大人げないと反省している。あの日から12年の月日が流れた。夜10時過ぎに掛かってくる電話は娘の声、いつもの陽気な声、子供たちをどなる声も受話器に入る。辛いこともあるのだろうが、泣きごとは言わない。憶測はしない方がいいのだろう。
 娘の部屋から見える空、この空はアメリカに続く空なのだ。時空を超えて娘の好物を届けたいなどと考える、あきらめの悪い母親だ。
 
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