「よみがえる化石」

  梅雨が明けた日の朝、数十年ぶりに私は、金田一温泉にある旅館「緑風荘」を訪ねた。遠い昔の夏、母方の祖父がここの庭で石を彫っていたことを、ふと思いついたからだ。

 一戸町奥中山から二戸市の北端まで車でおよそ1時間。旅館の母屋は、相変わらず旧家としての威厳を保っている。もしかしたら、祖父の作品と会えるかもしれない。祈るような気持ちで玄関へ急いだ。
 フロントで来訪の意を告げると、主人が快く迎えてくださった。細長い廊下を通って右奥にある大広間に入る。途端に、私は息をのんだ。二十数点もの化石を含んだ水盤や置物が、陳列棚にずらりと並べられてある。まさしく見覚えのある祖父の作品だ。ひとつひとつの石を懐かしむように掌(てのひら)でさすった。表面の化石の感触をとおして、命のぬくもりが伝わってくる。私の胸は次第に高鳴り、祖父と過ごした少年のころを思い出した。
 二戸市(旧福岡町)で生まれ育った私は、小学生のころ学校から帰ると、自宅前にある本家の店先へ走った。祖父が彫り出す化石に心を惹(ひ)かれていたからだ。57歳で長男に洋服店の家業を譲った祖父は、金田一温泉付近で採取した球形の水成岩を、金づちとタガネを使って少しずつ彫り続けていた。原石の大きさと化石の付着ぐあいによって、水平型の硯(すずり)や水盤に、立体型の花器や置物にと、形を整えていくのだという。
 鋼鉄のタガネを石に打ち込むと、かすかな火花ときな臭いにおいを発して、石片が飛び散る。やがて、数千万年もの間、闇に閉ざされていたアサリやカキなどの化石が、表面に姿を現してくるのだ。
 「どうして、化石をうまく彫り出せるの?」
 何度も祖父に尋ねた。
 「オレには、石の目が見えるし、化石の声が聴こえるのせ」
 いつもの同じ返答に、私はあまり納得できなかった。あとになって、この世には目に見えない世界があることに気がついた。
 何ごともあせらず、丁寧にやるのが祖父のやり方だった。ものを粗末にしたり、他人の悪口を言ったりすることを極端に嫌った。戦後の世の中で何が大切なのかを、祖父が教えてくれた。母子家庭で育つ私を不憫(ふびん)に思ってか、服や足袋なども作ってくれた。祖母はすでに他界していたので、私は、祖父を「おじっちゃ」と呼んでなついていた。
 私が11歳だった夏、そんな祖父が本家から突然姿を消した。母の話によると、金田一温泉の緑風荘に行ったという。化石加工の仕事を頼まれたのだなと理解しながらも、何日待っても帰ってこない祖父に不安がつのり、私は勉強にも遊びにも身が入らなくなった。
 夏休みに入るのを待てず、7月初めの日曜日、私はひそかに金田一温泉へ向かった。7キロほどもあったろうか、堀野の町並みを過ぎると、さすがに心細い。が、もう少しで祖父と会える、と自分をふるい立たせて黙々と歩いた。緑風荘の門を入ると、庭の作業小屋の前で、祖父はやはり石を彫っていた。
 「おじっちゃ!」と叫んでそばへかけよった。祖父はびっくりした表情を見せて立ち上がり、「おお、よぐ来たな…」と笑いながらいった。
 早速、門前の店でラムネを買ってくれた。喉(のど)がかわいていた私は、その場でガラス玉を落とし、淡い緑色のビンに口を当てて飲んだ。思わず顔をほころばせて祖父を見ると、祖父も微笑(ほほえ)みを浮かべて私の顔を見つめていた。やっと落ち着きを取り戻した私は、とても幸せだった。
 あれから56年。
 緑風荘を訪ねたあと、本家の前に立った。いまは空き家になってしまい、カーテンも閉まったままだ。店の前に薄橙(だいだい)色のノウゼンカズラの花が、さみしそうに頭(こうべ)を垂れている。ひっそりとした店先から、コツ、コツと石を彫る音が聞こえてくるような気がした。祖父と化石が交わす会話のような音だった。
 かつて店内のガラス戸棚には、サンゴや貝の化石を含んだ硯や水盤、置物などが、誇らしげに座っていた。そのすべてが人手に渡ってしまい、行方が分からない。92歳でなくなった祖父は、生前どんな思いで手放したのだろうか。作品が減っていくたびに、幼い私は、自分の宝物が次々に消えていくように感じられて悲しかった。
 幸い、我が家の玄関には祖父に作ってもらった置物がある。丈20センチ、胴回り13センチほどの小品だが、表面には琥珀(こはく)色のホタテや白鳥(しらとり)貝の化石がくっきりと見える。祖父の魂が籠っているこの置物は、いまも私の心を癒し、励ましてくれる。生来父を知らない私は、祖父に父の姿をみていたのかもしれない。
 帰宅後、置物の化石をみた。故郷の懐かしい光景の中から、慈愛に満ちた祖父の顔がよみがえってきた。
分享到:
赞(0)