「蝉しぐれ」

 ひょんなことから北海道に住むことになり身辺多事な毎日で、あっという間に二十年が過ぎてしまい、俳人一茶の「これがまあ終のすみかか雪五尺」という心境になって居たところを子供達に救出されて、昨年の十一月に岡山に移って来たのだが、もうその頃北海道では吹雪が舞って居たというのに岡山では、銀杏の並木が時雨のように葉を降らせて迎えてくれた。準備してあった家は岡山大学の校地に接する住宅街で、周辺の住宅の後には小高い緑の山なみが続いていて、朝は頂上に白い靄がたなびき、よく日本画にえがかれている温和な眺めである。永年見なれている土地の人達にはなんの変哲もない風景かも知れないが、雄大で圧倒される様な北海道の荒々しい自然の中に過ごして来た者には、本当に心なごむ自然の姿である。二十年間をふりかえつてみると、一年の半分はきびしい自然との闘争であった。だからこの温暖な瀬戸内の自然の中に身を置くと、心身ともに緊張がほぐれてゆく様な毎日である。

 銀杏の落葉が終ると歩道のふちに沿って植えられた山茶花が咲き続き、春先にはつつじ、花みずきと目を楽しませてくれた。なにしろ二十年振りの雪が無い冬がうれしくて、明るい陽ざしの中を自転車で市内見物をして日を過して居ると、いつの間にか春になってしまった。花を作る準備をしようと庭の土を掘って居ると小さな蛙が土といっしょに出て来た。雨蛙だ。絶えて久しい御対面で、あまりなつかしいので手のひらにのせて眺めて居た。
 幼年時代雨模様になると、木の葉の蔭で鳴くこの蛙の声を思い出して居ると、そろそろ目をさまして地上に出ようとして居たらしく無愛想な顔で手のひらからピョンと飛出して行った。
 梅雨が近づいて数日雨が続いた或る日、道路をへだてた向側には岡山大学のブロック塀が続いて居る。その塀の前に時々立ち止まってじっと見て居る人が居るので、なにかと思って見に行くと、塀の隙間から出て来たのか蝸牛の行列である。時々自転車に小さい子を乗せた母親が車を止めて見せて居るほほえましい情景も見られた。
 花の競演が終り、いよいよ夏、今度は虫の世界の活動がにぎやかになる。樹木の多いこのあたりの主役は蝉である。天気がよいと、うす暗い頃から鳴き始める。油蝉?つくつく法師?熊蝉?かなかなと、それぞれのよい咽をきそって一日中鳴いて居る。その声の中に幼年時代の思い出が、よみがえってなんともなつかしい。
 以前私はこんな詩を読んだことがある。「人は人間に飽きると動物を愛し、動物に飽きると植物を愛する」と。私は今人間の愛につつまれ、動物や植物の愛の中に生きるという贅沢な毎日を送らせてもらって居る。戦前?戦中?戦後と生き、特に「生きて居た英霊」で故郷に帰った体験までした私の余生をこの豊かな自然の中で心静かに終りたいと願っている。
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