「サイン」

「そろそろ帰る時間だな」

 名残惜しそうに立ち上がると、母は袋から一冊の本を取り出した。
「フミちゃん、この本にサインしてけんだ」
 フミ子さんは突然の申し出に驚いたが、すぐにっこり笑って
「私の字でいいの? ほんとに? 名前書けばいいの?」
 老眼鏡とサインペンを探した。
「ありがとう、ありがとう、一生のたからものにするからね」
 思い切ってサインをお願いする母、恥ずかしそうに名前を書くフミ子さん。ほほえましくも、少しせつない別れの時。
「生きていたら、また会うべし」
「そうだ、そうだ。来年まで生ぎでるべ」
 こういう言葉は、まだ私には言えない。
 車の中から振り返ると、いつまでもいつまでも、見えなくなるまで手を振っていた。三十年ぶりの再会はこうして終わった。
 二人が出会ったのは十代の頃。教習所があった仙台で終戦までの数年間、寮生活を共にした。それぞれ故郷に帰った後、会うことはほとんどなかったが、交流はずっと続いていた。
 一昨年の津波でフミ子さんが息子さんを失い、避難生活でご主人も亡くしたことがわかり、母はずいぶん心を痛めていた。
 しばらくしてフミ子さんの本が出版されたという話を聞き、「おばあちゃんと同じ歳の人が本を出すなんて、すごい」と驚きながら、早速取り寄せてみた。
 ノートに書き記していた歌が、避難所を訪れた人の目に留まり、写真と一緒に出版されたのだそうだ。家族を失った悲しみと日々の思いが静かに伝わってくる。
 しかし、せっかく届けた本を、母は読もうとはしない。
「読んだ? どうだった?」と聞く私に、「まだだ、そのうち読む」と答えるだけ。
 実は母は本が読めなかった。活字が見えなかったのだ。一人暮らしの母を時折訪ねるだけの私は、その深刻な状況に気づかなかった。歩くのが一段と不自由になったのも、字を書けなくなったのも、視力の低下が原因だった。新聞も読まないまま重ねられていた。「歳とれば何でもだめになるなあ。仕方ないなあ」と長い間あきらめていた。
 その母がある日突然、「目の手術を受ける」と言い出した。フミ子さんの本を読みたいから、と理由を聞いてさらに驚いた。小さな一冊の本が大きな決断の後押しをした。
 二回の難しい手術に耐え、眼帯を外した時「わー、見える、見える」と子どものように笑った。どんなにうれしかったことか。
 退院して家に帰ると、すぐに本を読み始めた。特に感想は言わなかったが、ただ何度もうなずいたり考え込んでいた。それは私が初めて見る、母の姿だった。
 四人の子どもたちのために昔話を語ったり絵本は読んでくれたが、ひとりで読書する母の記憶はない。台所、掃除、針仕事など家族のために常に働いていた。舅姑の介護もあり、自由に時間を使って、本を読むということは考えられなかったのかもしれない。
「陸前高田までは遠いべが」
 数日後、母はぽつりと言った。ここ数年体力が落ち、遠出を全くしていない。その母が行くことを決断した。片道四時間の旅に耐えられるか不安はあったが、二人が少しでも元気なうちに、と出かけた。
 六月の再会の日、陸前高田の空は晴れ渡り、町は平面に広がっていた。
 フミ子さんは仮設住宅への曲がり角で、ずっと立って待っていた。
「遠い所までよく来たね、よく来たね」
 手を取り合ったまま離さない。
 二時間ほど二人だけで語り合った後も、とても穏やかな顔をしていた。私が想像していたような、涙の再会ではなかった。
「フミちゃんはあんなにつらい目にあっているのに、全然くどかない」
「悲しい話を聞いたりしゃべったりすれば、また悲しい思いをするからな」
 二人の間に置いてある本に、この二年間の思いがたくさんつまっている。薄いけれど重い一冊。この本があったからこそ、八十五歳の親友は「これから」の話ができたのだと思う。前を向いて歩いて行く。全く気負いなく自然に。母は自分が会いたいだけでなく、この親友に私たちを会わせたかったのだと思った。
 今、母のそばにはいつもこの本がある。本を積み重ね、濫読をして本好きを自認していた私は完敗だ。人生で一冊の本にめぐり会うというしあわせを、母は八十五歳で手にしたのである。しかも著者サイン入り限定一冊。
 後ろの見返し左隅に小さく名前が書いてある。フミ子さんのようにとても控えめでやさしいサインだ。
分享到:
赞(0)