「祖母の読書」

 六月に九十九歳で亡くなった祖母は、平仮名の読み書きしかできなかった。実の母親が早く亡くなり、継母の元、小さい弟妹の世話をしなければならず、赤ちゃんを背負って小学校に行っていたらしい。

 「おんぶしたまま、おしっこをされると背中まで濡れてね。今みたいに紙おむつじゃないから、冷たくて。ウンチをされると、そこらじゅう臭いのよ。お腹が空くと、泣きやまないから、家に帰ったんだよ」
 周りに迷惑になるので、だんだん通わなくなった。家の庭で子守りをしていると、同年代の子供たちが学校に通う姿が見え、うらやましくって、何度も泣いたという。祖母は、十六で嫁にきた。小柄な祖母は毎日野良仕事をしていても、陽にも焼けず、肌が白かった。眉尻が下がっていて、笑っていても泣いているように見えた。
 おばあちゃん子の私は、いつも祖母と一緒にいた。小学生の頃、祖母と山菜採りに行ったことを覚えている。秋田では雪が消えると、一斉に植物が芽吹く。こごみ、わらび、ぜんまい等、面白いように採れて籠が一杯になったので、湧水のそばに腰掛けた。
 「山は誰もいないから、いい。昔、お前たちのおじいちゃんが戦争で亡くなった時、よく山に薪を拾いに来ては、大っきな声で泣いてね」
 蕗(ふき)の葉をくるりと丸めて、清水をすくって一口飲むと、祖父の話を聞かせてくれた。
 私の父が七歳の時、祖父は戦争でビルマに赴き、赤痢で亡くなったと聞いている。お仏壇の遺影は若く、穏やかそうな目元だった。
 「戦死の報告の紙一枚で、遺骨も遺品も無くって、お墓に収める髪の毛一本も無かったのよ。おじいちゃんは優しい人でね。字が上手で、よく代筆を頼まれていたよ」
 祖母は、遠くに浮かぶ雲を見ながら、ぼそぼそと話してくれた。いつもみんなの愚痴の聞き役だった祖母が、自分の事を話すのは珍しかった。 
 大学の冬休みで帰省していた私に、一冊の本を抱えた祖母が話しかけてきた。
 「この漢字、どう読むの?」
 それは小学校一年生向けの字の大きな絵本だった。ほとんど平仮名ばかりだが、時おり漢字があった。祖母は、同じ漢字の読み方を何度も尋ねてくる。
 「どうして、読み始めたの?」
 「私は、畑の草取りが好きでね。でも冬は雪が積もって、できないから退屈で困っていたの」
 祖母は、二階の子供部屋の本棚から探してきては、次々と読み終わっていく。私は祖母の隣で読み方を教えながら、懐かしい時間を過ごした。『あしながおじさん』や『小公女』、どの本も小さい頃に何度も読んだ、思い出の詰まった本だ。
 読み終わった本について、二人で感想を話し合うこともあり、それは楽しいひとときだった。
 次の冬休みに帰省した時も、祖母の読書は続いていた。夕飯の後や、昼休みに少しずつ読んでいた。が、手にしている本を見て驚いた。それは、『ビルマの竪琴』で、私が中学生の時に夏休みの読書感想文の課題図書だった。難しい漢字もたくさんある。
 「本当はね、この本を読みたいから、読書を始めたんだよ。おじちゃんが亡くなった、ビルマの戦争の話だから。ビルマってどんなところか、知りたかったの」
 物語の主人公は、竪琴の上手な水島上等兵である。戦争が終わり、彼が所属していた小隊は日本に帰ることになった。しかし水島上等兵は、散乱している日本兵の遺体に遭遇し、戦死者を弔うために僧侶になってビルマに残るという物語である。厳しい暑さの中、食料も無く赤痢や風土病に苦しみ、敵に襲われたり地元のグルカ兵の奇襲を受ける日本兵の様子。シッタン河のほとりに腐乱した死体が積み重ねられ、死体の山となっている描写を読んで、祖母の心は凍りついたのではないだろうか。
 祖母は毎日、目を真っ赤にしながら読んでいた。それは、傍(そば)で見ていて胸がつぶれるような読書だった。読み終わった後、祖母はひとつ大きく息を吐いた。
 「どうして、水島上等兵は日本に帰ってこなかったんだろう。家族が待っているだろうにね」
 祖母の問いに、私はすぐに言葉が見つからなかった。
 あれから三十年が経ち、私も夫と成人した三人の子供がいる。穏やかな小春日和の縁側で、すっかり変色した『ビルマの竪琴』を読み返した。なんだか、隣に祖母が居るような気がする。
 「水島上等兵は、きっとおじいちゃんの遺骨も埋葬してくれたよね」
 心の中で祖母に話しかけた。
分享到:
赞(0)