「さりげない読書」

「あなたは本が好きでしょう」

 私が学校の図書館から夏目漱石や、谷崎潤一郎の単行本を借りて来る度に、周囲の人達はいつも驚いた顔になる。
「いつもこんな難しい本を読んでいるの?」
 私は中国人。日本の現代を知るだけで精一杯のはずなのに、どうして日本人でも読まない難しい本を読むのか、みんな不思議でしょうがないようだ。
「漢字が多いから読みやすいのよ」
 私がそう説明すると、周りの人はやっぱり、
「いやいや。すごい。やっぱり勉強家だね」と私を褒める。
 褒められて「嫌だ」と叫ぶ人はさほどいないと思う。
 私もそうだった。
 それで、知らず知らずのうちに、私は読書家と皆に決められてしまった。
 実を言うと、私は借りて来た本で読み切ったのは一冊もなかった。
 まず、読まずに返してしまったことの方が多かった。それは返却期限が来ても、読む時間がなかなか見つからなかったからだ。
 読んだ本といっても、殆(ほとん)どトイレに入った時、「じっと待っている」間に、1、2ページを読み通すだけだった。
 せっかくなので、本当は一章ぐらいでも読めばよかった。が、私の腸はとても元気で、トイレの時間は掛からない。時々1ページも読み切れないうちに、トイレは「完了」してしまう。
 しかし、昔の本、それらの名作から、何か大きなテーマを読み取る必要はない。逆にその都度その都度の風景や人物の描写が丁寧なため、ペース的にも非常にゆったりとしていて、とても読みやすい。
 それらの小説を音楽のクラシックと例えていいかな―いやいや。クラシック音楽もいろいろあるから、せいぜいその中のセレナーデと言っていいかしら。
 それとも、スポーツのヨガと考えていいのかな―動きながらも、呼吸や、心が自然の中に溶け込んでゆく。
 本を読まずに返したり、少ししか読んでなくて返したりのような読書スタイルを続けている中、いつか小説の中で読んだ景色と同じものを生活の中で見つけた時に、「やっぱりもう少し読んでみようかな」と思う時がある。その時初めて、私はかつて読んだ「名作」を本屋から買ってくる。そして夜になると、私はアロマを焚(た)いて、スタンドライトをつけて、早めに寝床に入り本を開ける。しかし、そこでやっぱり1、2ページしか読めない。なぜかというと、本を読むとすぐ寝てしまうからだ。
 すぐ寝てしまったとしても、その日読んだ文の中から、必ず一行一句に共感があった。
 例えば最近、夏目漱石の『こゝろ』を適当に開いたところ、こんな一行が目に映った。
 私は田舎の客が嫌だった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的として遣(や)って来る彼等は、何か事があれば好いと言った風の人ばかり揃っていた。私は子供の時から彼等の席に侍するのを心苦しく感じていた。
 私も子どもの頃、同じことを感じた。しかし、都会人である自分はこうやって田舎ものを軽蔑してはいけないのではないかとずっと心の中で苦しんでいた。この一行を読んだ時に、正しいか正しくないかの結論は何も書いていなかったのに、何十年も悩んできた苦しさが一気に吹っ飛ばされてしまった。
 本を読むことは、誰の本を読んだか、どのような感想だったか、さほど大事ではないと私は思う。一番大事なのは、時代を超えて、自分と違ったあの時空を経験した人達と共感を得ることだ。そして、その中での美しさ、激しさ、好き、嫌い…いろんな気持ちに揉(も)まれた後に、この世の中で生きているのは自分だけ、そして自分だけじゃないという気分を味わうことだ。
 コミュニケーションの少ないこの世の中、これらの本を通じて、時代を超えて偉人を友人にして、心を交わし、自分を成長させるのもいいではないか!
 私は今も夏目漱石なんてよく知らない。芥川に関しては、毎年賞の選考があるくらいの認識だ。でも、これらの名作はもちろん、これから名作になる現代作品にも、このような国境を超えて美しいものがある。そして、さりげない読書も、このような心を癒(いや)す瞬間を感じるはずだ。
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