「小さな図書室」

 私は山里の小さな学校で学びました。校庭だけは十分な広さがありましたが、理科室や音楽室には、そう呼ぶに相応(ふさわ)しい物が揃っていたわけではありません。図書室も例外ではなく、空き教室の壁に本棚を置いただけの粗末なものでした。本はわずかでしたから、真ん中に大きなテーブルを置いてもまだ、だだっ広い空間が広がっていました。

 三年生になるころには、低学年用の大きな字の本は、読み尽くしてしまいました。そんな時私は、上級生から図書室の本棚の下に無造作に積まれた、綴(と)じ糸が切れてバラバラになった冊子の存在を教えてもらいました。おそらく雑誌の付録だったであろう冊子は、くすんだ灰色の紙質で、さらに手垢で汚れていました。それらを二三枚ずつ寄せ集め、ページ番号を頼りに元の薄っぺらな冊子に完成させるのです。根気のいる作業でしたが、心弾む時間でした。私は作業の段階から、もう本を楽しんでいたのです。バラバラになった冊子のある学校の図書室は小さくても、謎めいて魅力的な場所でした。
 ところが学年が進み、陸上大会で町の小学校を訪れたとき、私は偶然その学校の立派な図書室を目撃してしまったのです。ガラス戸越しに垣間見た図書室は、重なりあって本棚が並んでいました。奥まで見通せない眩しいほどの本の数を見たときに、私は驚くより先に怒りに震えました。町の子供たちには、こんなにたくさんの本が用意されているというのに、村の子供にはわずかしか与えられないという不条理。私は腹立ちと共に、どこか捻(ね)じれた感情がわいてきたのです。もう五十メートル走も、走り高跳びも、町の子と対等に競うのも馬鹿らしい気持がしていました。村の子は町の子より劣るように、初めから仕組まれているような寂しさを感じたのです。
 家に帰った私は、どうしたら町の学校の本が読めるのかと父に尋ねました。父は質問には応えず、私をバイクの後ろに乗せて、町の本屋へ連れて行きました。好きな本を二冊、買ってくれるというのです。貧しい農家の四人の子のある父が、一人の子だけに本を買うのは、決心がいることだったでしょう。その贅沢(ぜいたく)さえも、いじけた私は満足できませんでした。本の所有者になることより、多くの本が読めることの方が魅力でした。町の子はそれが簡単に出来るのです。私は新しい二冊の本といっしょに、捻じ曲がった心も抱え持ったまま、バイクの父の背につかまったのです。
 当時わが家に届く本は、『家の光』一冊だけでした。誰よりも『家の光』が届くのを心待ちにしている母が、一番先に読みました。母の読書時間は、昼食後のわずかな休憩時間のみ。地下足袋を履(は)いたままの足を、上がり端の先につき出して、畑仕事で疲れた体を横たえながら読むのです。母にピーマンの栽培やトマトソースの作り方を、いち早く教えたのも『家の光』でした。『家の光』を見ながら、母は毛糸のパンツやセーターを編み、味噌や饅頭を作り、外国の話をしてくれました。
 秋に重たげな月が山の端(は)から顔を出すと、母は大声で四人の子を呼びました。暗い縁側に並んで座った子は、古(いにしえ)よりくり返されてきた、月を愛(め)でる日本人の心を体感させられたのです。初夏に田んぼで天にも届くカエルの大合唱が聞こえだすと、斉藤茂吉の歌を詠み、雪の日に「二の字二の字の下駄のあと」と描いてみせて、子供たちを面白がらせました。
 村から一歩も出たことのない、女学校にも行けなかった母のどこに、そんな知識があったのか? 母はすべての知識を『家の光』から得ていたのです。当時は我が家に限らず、一家に一冊の本でさえ贅沢なことでした。『家の光』は質素な農村の現状を受け止め、農村の啓蒙に努めた、小さな図書室だったのです。私よりもっと小さい図書室で学んでいた母。その事実に気づいた時、町の子に対する私の妬みは消えていきました。「賢さは図書室の大きさに比例する」と思い込んでいた私は、母の在り様に、自分の過ちに気づいたのです。
 人はどこにいても学べる。上がり端でも、小さな図書室でも。たとえ本の乏しい山の学校にいても、学ぶ気持ちさえあれば、たくさんの知識を得ることが出来るのです。母は無い物を嘆くより、有る物を大切にすべきだ、乱読が叶わないなら、一冊の本を熟読すればいいと、態度で示していたのです。
 半世紀を過ぎた今、私は本の洪水の中に暮らしています。けれど私が大切にしているのはただ一冊。母から貰った家の光別冊「ご飯によくあう漬け物」です。漬け物の季節毎に必ず、私はこの使い古した冊子を開きます。薄い冊子をめくると、がらんとした図書室の床に座り込んで、黙々と灰色のページを並べていた頃のときめきが蘇ります。上がり端で『家の光』を読んでいた母の姿を思い出します。すると当時の貪欲な気持ちが沸々と湧き上がってきます。私を奮い立たせるのは、遠い昔の小さな図書室の記憶なのです。
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