「みそっかす」

 小学四年生のある日、それは起きた。

 名づけの由来を調べる宿題がでた。母に、「百合子という名前は、誰が、どんな理由で名づけたの」と尋ねた。母は、「それはお父さんが、昔から百合の花が好きだったからよ」と答えた。すると、そばにいた十三歳年上の姉が、苦々しそうにこう口を挟(はさ)んだ。
 「お父さんったら、お産婆さんに女の子ですと告げられると、また女の子か、と言って、名前もつけようとしなかったのよ」と言い出した。上二人が女の子だったので、父は三人目こそは男の子をと望んだ。しかし、産まれたのは、女の子であった。がっかりした父は、届けを出す最終日にようやく、好きな花の名前をつけたとのこと。
 私は望まれない子であったと初めて知った。
 それ以来、その事実を忘れたふりをするようになった。
 父は苦学して一代で財を成した。その苦学した時代を思うにつけ、我が子には学を身につけ、自立した人間に成長して欲しいと望んだ。
 私が大学に入学した時、父はこういった。 
 「在学中は、本を読め。生涯の友を得よ」 
 そう言って、文学全集を入学祝いに贈ってくれた。その中に幸田文の『みそっかす』という随筆があった。それを読んだとき、心の中に閉じ込めておいた、あの忘れたふりが突如よみがえった。『みそっかす』の中で幸田文はこう書いている。
 「いらないやつが生まれてきた」と父がつぶやいたということを、やはりこのおもとから聞かされ、物心ついてから何十年の長い歳月を私はこのことばに閉じ込められ、寂寥(せきりょう)と不平とひがみを道づれにした。
とある。まさに私とそっくり同じである。
 しかし、そんな幸田文も、父亡き後、
 父の生命とひきかえのようにして、ようようすべての子は父の愛子(いとしご)であるということがわかったのであった。
と結んでいて、救われたような気持になった。
 大学入学時、父に本を読めと言われたが、勉強せよとは言われなかった。それを良いことに、私は勉強もせず、試験のときは山をかける専門だった。山がはずれたら悲惨だ。
 勉強は自分の部屋でしないで、居間の炬燵(こたつ)でするのが常だった。炬燵の心地よさは、私から勉強の意欲を奪うばかりか、眠りの世界へと、いざなうのだった。もうろうとした意識の中でノートの端に、「山かけて谷底落ちる うさぎかな」と書いて炬燵で寝込んでしまった。 
 朝起きて学校へ出かけようとすると、開いたままのノートに、見慣れぬ字があるではないか。読んでみると、「うさぎさんへ。山は駆けないで、地道に歩くように 父より」と書かれてあった。
 心を新たにして、また、たくさんの本を読み、生涯の友を得た。おまけに、その生涯の友である人と結婚することになった。司会は両方の友人が引き受けてくれた。彼らは両親や友人、恩師に寄稿してもらい、一冊の本を作ってくれた。その中に、父の寄稿文があった。
 百合子は茶目っ気のある子で、いつも家族の者を笑わせている。言葉も態度もきびきび 
 していて若々しい感じがする。無邪気な、まだ子供のように見える娘が、もうお嫁に行 
 くようになったかと、今更のように感慨にひたることがある。(中略)
 嫁にやってしまって、たまたま雨の日に林道でも散歩したら、ハラハラと涙が出るかも
 しれない。それは感傷の涙であり、悲しさの涙ではない。
とあった。
 幸田文の『みそっかす』の中で、「すべての子は父の愛子であるということがわかった」という文が、しみじみと身に染みた。
 父が亡くなる数年前、「みそっかす」であった私が父の看病をした。動けなくなった父の背中をさすると「ああ、楽だ」と喜んだ。 
 大きかった背中が小さくなっていた。
 枕元には、古びた本があった。父の蔵書印が押してあった。それは貧しい中、やっと手に入れた本に自作の蔵書印を押したものだ。父にとって、宝物にも匹敵するものだったに違いない。
 入学祝いに文学全集を贈ってくれ、「本を読め」と言った父の言葉には、本を読みたくても買えなかった貧しい時代を振り返り、万感の思いが込められていたのを初めて知った。
 蔵書印には、百合の花が彫られてあった。
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