「水」

 ぎりぎりセーフで駆け込んだ山手線車内は満員だった。その時、" いたこのいたろう" がどうのこうのと誰かが歌っているのが聞こえた。遠くの座席に座っているおじさんだとわかった。面白そうなので人混みを分け入っておじさんのもとへ進んでいった。まずは少し距離をおいて観察する。おじさんの年齢は五十くらい。ぼさぼさの髪にはフケらしきものがいっぱいだ。よれた茶色のシャツに紺の細身のズボン。そして何より目を引いたのが素足に健康サンダルをはいているところ。健康に気づかっている浮浪者なのだろうか。左手には飲み干した日本酒のカップを持っている。ほろ酔い気分で鼻歌を歌っており、気持ち良さそうだ。車内は混んでいるというのに、おじさんの周りだけは空いている。席の両隣もあいていれば、おじさんの前に立つ人もいない。あまりの露骨な避け方にかわいそうになり、私はおじさんの横に座ってみた。お酒と汗の混じったような妙なにおいがした。 「お、おねえちゃんも長くねえんだから、人生楽しんでおかなねえとな・・・」

 大声で説教をされた。皆が私を白い目で見る。彼に反論するのも気が引けるので、ひたすらうなずいて彼の話に耳を傾けた。新宿から田町まで、およそ二十分間、彼の独演会は続いた。
 彼は奥さんに逃げられたらしい。今はどこにいるのやら、と言う。一人で孤独に生きるのが一番いいと強がるが、寂しそうだ。また、自分はろくでもない酔っぱらいだと言い放つ。しかし、そんな彼にも一つだけ夢がある。
「俺は死んだら雪の中。雪の中で孤独に死んでいくのが夢だよ。」
隣にいる私は、何かされたらどうしようと気が気でない。しかし、彼の言葉の一つ一つに不思議と感動を覚えた。最愛の奥さんを失い、何もかもやる気を失った彼の頼りは酒だけだ。世間にも見放され、あとは孤独な死を待つばかりだと言う。
 なんだか私は、おじさんを単なる「浮浪者」と呼んではいけない気がした。彼にはそれ以上のロマンがあり温かさがある。それにひきかえ、あの車両の人間の冷たさといったらない。富士山の湧き水よりも冷たい。その水のように冷たい世間をお湯にかえられる温かい人間になることこそ私の永遠の課題である。将来は世間に対して「保温効果」のあるテレビの担い手になっていきたい。 
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