【思はむ子を】 ~第七段

 思はむ子を法師になしたらむこそ心苦しけれ。ただ木の端(はし)などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。精進物(さうじもの)のいとあしきをうち食ひ、寝(い)ぬるをも、若きは物もゆかしからむ、女などのある所をも、などか、忌みたるやうにさしのぞかずもあらむ、それをも安からず言ふ。まいて、験者(げんざ)などはいと苦しげなめり。困(こう)じて眠(ねぶ)れば、「ねぶりをのみして」などもどかる、いと所せく、いかに覚ゆらむ。

 これは昔のことなめり。今はいと安げなり。
 
(現代語訳)
 
 愛する我が子を法師にしてしまったら、それこそ気の毒だ。世間では、法師をまるで木石などのように思っており、とてもかわいそうだ。法師は、精進物のひどく粗末な食べ物を食べ、寝るときさえ、また若い法師は何かと気を引かれるだろう、女などがいる所をどうして避けるように覗かないでいられようか、しかし、人々はそんなことにもうるさく言う。ふつうの法師でもそうなのに、まして修験者などはたいそう苦しいようだ。疲れてちょっと居眠りしても、「あの修験者は眠ってばかりだ」などと非難される。ものすごく窮屈で、いったいどんな気持ちでいるのだろう。
 
 もっとも、これは昔のことのようだ。今ではだいぶ気楽なようすだ。
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