「通夜の雨」

 ブーウ、ブー。車の音がした。居間の障子を少し開け、外をのぞくと、梅雨の終演を思わせる豪雨だった。部屋から流れ出た黄色い明りの中に、夫の白い車が雨の糸といっしょに入って来た。

 三時間ほど前のことだ。夫から電話があった。「山本さんの奥さん、とうとう亡くなったよ。これから通夜に行く。五時半までに会社に服をそろえて持って来てくれ」
 山本さんは夫の元上司。奥さんが胃癌で入院したと聞いたのは去年の晩秋だった。まだ一年とたたない。私は小雨の中を車で会社に喪服を持って行った。
 「ただ今」  沈痛な声が玄関を上がって来た。夫は左手でネクタイをもぎ取りながら、迎えに出た私に、
「おばあちゃんの死に顔はきれいだった」とつぶやいて、ちょっと首を横に振った。九十八歳で三年前に亡くなった祖母のことだ。枯れきった樹が燃えつきたような死だった。山本さんの奥さんは癌で亡くなったといえば、そういうわけにもいかなかったのであろう。
「奥さん、幾つだったの」
 私はお汁の鍋をレンジにかけながら、廊下をやって来る夫に尋ねた。「四十五歳だって」
「まあ、私より三つも若い。お気の毒に。山本さん、これから大変だわ」「うん」 夫は暗い顔で食卓についた。
「大丈夫よ。貴方だって立ち直ったもん」
 私は背中で言った。私達は十六年前に長男を亡くした。生きていれば、もう二十五歳である。
「ああ。でも俺にはお前がいた」
 思いがけない夫の言葉だった。私は一瞬息を止め、慌ててグリルの鰺をのぞきこんだ。
「私こそ、貴方がいたから何とか…」
のどまで出かけた言葉を、引っかかったつばといっしょに胸の中に押しもどした。
私は魚を皿に盛ると、きびすでくるりと振り返った。食卓に座った夫は事もなげにひじきの煮つけをつついていた。
「一杯飲まない?」
 私は明るい声を装った。
「ああ、いいね」夫は目で言った。私は食器戸棚からガラスコップを二個取り出した。そして一つに七分目、もう一つに三分目ほどウイスキーの水割りをそそいだ。
「山本さんが『奥さんを大事にしてやれよ』って、しみじみと言ったよ」
「ふっふっふ。『にくまれっ子世にはばかる』って。私、長生きするよ」 私は夫の目を見つめて笑った。夫はうなずいて、おいしそうにグラスをかたむけた。私は夫の向かいの椅子に腰かけた。
 裏の竹やぶに雨の音がまた大きくなった。
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