贋食物誌63

     63 熊(くま)㈰

 
 
 志賀直哉。昭和四十六年没、八十八歳。
 広津和郎。昭和四十三年没、七十六歳。
 いまではこの世にはおられないこの二つの名前に、
 里見|※[#「弓+享」]《とん》。
 谷川徹三。
 と並べると、わが国の最優秀の頭脳と人格が勢ぞろいしている観があって、壮観といえる。
 十年くらい前になるだろうか、阿川弘之から電話がかかってきて、この四人の人物と熊掌《ゆうしよう》を食べるように段取りをつけたので、つき合わないかという。アガワは志賀直哉の古くからの心酔者というか弟子といおうか、ともかくマメなタチだからしばしば志賀家に出入りしていた。
 志賀さんにつながる縁で、あとの三人物ともつき合いができたのだろう。
「志賀直哉に会うことは富士山に登るようなものだ」とは、安岡章太郎の言葉である。無条件の尊敬という意味ではなく、含みはあるが、たしかに私たちの世代にとってはそういう感じである。
 その頃までに、志賀さんには公的私的に四度ほど会っていた。
 広津さんとは、偶然会うと立ちばなしをするくらいであり、あとのお二人とは会ったこともなかった。アガワからそう言われたとき、正直言って億劫《おつくう》だった。先輩大家に近づくことは、いろいろ複雑な気分がからまって私は避けている。川端康成と私の亡父とは、会えば親しく話し合った仲であったらしい。川端さんのほうが、先輩である。しかし、川端さんとは、私はとうとうゆっくり話をすることがなかった。
 自殺の前の年の暮、ある小人数の会があって、川端さんがゲスト格で招かれていた。日本座敷にみんな坐っていたが、ふらりと私の傍に近よると、畳の上に坐りこんで、
「ヨシユキさん、浅草の三社祭《さんじやまつり》に行ったことがありますか」
「いいえ」
「来年、一緒に行きましょう」
 そういう間柄ではないことだし、意味がよく分からないので黙っていると、
「わたしは、浅草のことは精しいんです」
 川端さんに、浅草を舞台にした一連の小説があるのは、当然知っている。
「それは、そうでしょう」
 と言って、首を傾げていると、川端さんは立上ってまたふらりと離れていった。睡眠薬が入っていることを、感じさせた。
 その三社祭が近づいたころ、突然の自殺である。
 話を戻すと、熊掌というのはその字のとおり、熊の掌の料理である。中国料理のなかでも珍品で、話は前から聞いていたが、まだお目にかかったことがなかった。大いに、興味がある。それに、やはりこういう人物に四人一度に会う機会など、二度とないとおもい、その集まりに参加した。
 皆さんそれぞれ、癇癖《かんぺき》が強いので有名であるが、年齢とともに穏やかになっている気配をまず受けた。
 熊掌は薄味のスープになっていて、ゼラチン状のものであり、品の好い味がした。それを食べながら、
「ご存知とおもいますが、この熊は右の掌しか食べられないそうで……」
 と、うっかり口にしてしまって、これはマズいことを言ってしまった、とおもっていると、広津さんから、
「君、それはどういう意味なの」
 と、質問を受けた。
 
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