「母は歌う」

私の母は、いつも歌っていた。

朝、窓をあけ空にむかって歌い、ご飯を作りながら歌い、掃除をしながら歌い、犬の散歩をしながら歌い、テレビを見ては歌い、夕焼けを見ては歌う。しかもそれは、鼻歌なんかではない。
声量もマックス、歌詞も音程もミスなく、かなり本気で歌う。
日々、お母さんコンサート開催中なのだ。
レパートリーも豊富に、童謡、合唱曲からイタリア歌曲まで、リクエストがなくても歌う。
本人は、いたってご機嫌だが、子どもの頃は正直、大迷惑だった。
 
スーパーで野菜を選びながら、コンサートばりに歌い上げる母を、同級生に見られるのは、とてつもなく恥ずかしい。
「かっこ悪いから、歌うのやめてよ」私がそう言った時の、母の顔を今でも覚えている。
あれから、30年以上たっただろうか。70をすぎた母は、まだ歌っている。流れる月日のなかで、母もずいぶん年老いた。足も遅くなったし、背中も丸くなった。楽しいことばかりでは、なかったはずだ。胸が張り裂けそうで、歌えないような日々もあっただろう。
でも、母は今日も歌う。そして私はいま、歌う母がたまらなく好きだ。
 
もうすぐ、母がレッスンに通っている、声楽の発表会がある。大きな花束を持って行こう。写真も撮ろう。そしてその優しくて、のびやかな歌声を、いっぱいいっぱい、感じようと思う。
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