「父の匂い」

  心の奥に消えることのない道がある。夕暮れ時を思わせるような道である。

 学校から帰ると寝床の戸が開いていた。窓がなく陽(ひ)も差さなければ風も入らない部屋だ。のぞくと父が横になっていた。持病の座骨神経痛がいつにも増してひどいようだと、母が話してくれた。
 「医者サ行って、薬もらって来(こ)」
 思いもしない言葉に聞き違いではないかと母の目をとらえた。父に似て臆病者の私。一人で用足しに出たことはない。町の医者まで片道三十分はかかる。まして、小学二年生の私の足ではもっとかかるだろう。嫌なのに嫌と言えないでうつむいていた。
 行く先々の恐怖を思うと、駄々をこね泣き出しかった。
 「寄り道しねで、さっさと帰って来(こ)よ」
 母に念を押され、重い気持ちをひきずったまま家を出た。
 おかっぱ頭に汗を感じない。大好きなスカートもはいていない。すると、季節は秋だろうか。
 坂を登ると学校が見えた。いつも賑(にぎ)やかな校庭は静まり返っていた。(ちぇっ)誰かに勇気をもらうつもりだったのに……。歩きながら靴で石ころを蹴り飛ばした。
 道の真ん中から左端に沿って歩く。右手に女の子が溺(おぼ)れ死んだというため池があるからだ。ドロリとした緑色の表面には葉や小枝が散乱し見るからに気味が悪かった。なにより、ここで溺れた子が髪や着物を濡(ぬ)らして水面に浮かび、私を恨めしそうに見ているような気がしてならなかった。両腕を水平に伸ばし、口を結び通り過ぎた。
 道筋に息を潜める所がまだある。草むらの中に大きなお墓が建っていた。それだけでも怖いのに、お墓の裏から野良犬が出ることがあった。しっぽを太くして唸(うな)り声を上げるだけの時もあったが、どこまでもついてくる時もあった。母と一緒の時でさえ足が竦(すく)み(シッ、シッ)と心の中で追い払っていた。もし、犬に出くわしたらお尻に噛(か)みつかれるかもしれない。そう思うと足音が出ないようにスタスタ急いだ。
 道の両端に立ち並ぶ木々もなく明るい所にでた。医者まではもうひと息である。
 やっと着いた。息をはずませている私に「いつもの薬ね」と看護婦が言った。全身で「うん」と答えた。
 薬を待つ間、外に出て遊んでいた。
 「いさこ?」聞き慣れた声がする。運送業をしている近所のおばさんだった。一人で薬をもらいに来ていることを話すと、トラックの荷降ろしが終えたら車に乗せて帰るからここで待っているように、と言い仕事に戻った。
 怖さと歩きで疲れていた私は、おばさんの言葉に迷いなく頷(うなず)いた。もらった薬を固く握り、畳二畳ほどの待合室に座っておばさんを待った。なかなか戻ってこない。
 (待っても歩くよりは早いよ。車だもの)
 言い訳をしてみた。だが、空は薄墨色に暮れかけていく。(早く来ないかなぁ)待合室から何度も外に出たり入ったりしながら待ち続けた。
 父と母の顔が浮かぶ。叱られると思うと胸がドキドキしてくる。あれほど、すぐ帰るようにと言われていたのに。
 どのくらい待っただろう。おばさんが戻ってきた。私を抱き上げてトラックの座席に座らせ、ようやく走りだした。初めてのトラックに期待し心弾ませていたのに、気持ちは家に家にと急いでいた。
 沈んだ心で玄関を開けた。寝床の戸は開けられたままだった。大事に握ってきた薬をもそっと母に渡した。
 「サっ、父さんに謝るべし」
 父に気遣う母の苛立(いらだ)ちの声がした。悲しさと怒りが入りまじる。遅くなってしまった、でもガンバッテ行って来た。二つの気持ちが私を黙りこませた。母は謝ろうとしない私の背を強く押した。両足だけが前に出た。顎はぐっと引いた。
 背を押されたまま父の前に行く。
 「父さん……」次の言葉がすんなり出ない。父は細く白い脛(すね)をかばうように、ゆっくり布団の上に座った。ぶたれると思っていた私に「来(こ)っ」と小さく手招きした。
 寝間着姿の父の傍らに行き膝をついた。湿った力ない手で頭をなでてくれた。だらりと合わせた襟元から汗の臭(にお)いがした。父の匂(にお)いであった。その臭いは、病む父を忘れトラックという楽な方を選んだばつの悪さと、行きと帰り同じ道なのに、帰りはまるで違う道に思えて混乱している私の心を鎮めた。
 父は辺りがうす暗くなっても帰らぬ私をどんな思いで待っていたのだろう。
 ずっと、気にもしていなかった父の気持ちが、年を重ねれば重ねるほど切なく解(わか)りかけてくる。
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