「ミヤコワスレ」

  東京で暮らす母から久しぶりに電話があった。会話の中に時折「老い」を感じることはあっても、達者でいてくれることは有り難い。離れて暮らす娘としては、話し相手をすることくらいしか出来ない申し訳なさをいつも感じている。その日、母は私にこう言った。

「長年そっちにいるから愛着もあるだろうけど、背負ってるものもないんだし、一人でいるより東京に帰ってきたら? もう東京のことは忘れちゃったの?」
 母の一言で、小さい花の記憶が蘇(よみがえ)った。
 祖母は花が好きだった。私が子供の頃(ころ)の数年を過ごした母の実家には、都心近くでも20坪ほどの庭があり、祖母が育てた花が季節毎(ごと)に咲いていた。花の他に桜桃、無花果(いちじく)、柿など実の成る木もあって、子供たちの楽しい遊び場になっていた。私がその花を初めて見たのは晩春の庭、手押しポンプの井戸端近くにひっそり穏やかに咲いていた濃紫色の小さい花は「都忘れ」という名前だと祖母に教わった。子供心に「大人の花」と思ったのは、花の風情とその名前のせいだろうか。
 後年、その花の物語を知人から聞いた。
 『結婚を約束した娘を故郷に残し、都へ旅立った若者が事故に遭い重傷を負う。都の娘に助けられ元気にはなったが、若者はそれまでの記憶を失っていた。やがて若者は助けてくれた娘と結婚し、都で幸せに暮らすが、故郷の娘は、風の便りに若者が都で結婚したことを知って絶望する。若者が記憶を失ったことを知らずに、娘は深い悲しみに堪えきれず川に身を投げる。翌年、その川のほとりに見たこともない濃紫色の花が咲き、人々は死んだ娘の化身だと噂(うわさ)した。数年後、若者が通りかかって川のほとりで休んだとき、咲いていた可憐(かれん)な花を見付ける。その花に触れた途端、若者は都でのことを全(すべ)て忘れてしまった。そして川のほとりで1人ひっそりと暮らしたのだそうだ』というものだった。誰が創作した物語かは知らないが、当時若かった私はその話を聞き、突然忘れ去られた都の娘は別の花になったのかと言って、知人を呆(あき)れさせた思い出がある。
 「都忘れ」という花は、庭で遊んだ無邪気な時代と祖母を思い出す大切なもので、花の季節に店先で見付けるとよく買い求めて部屋に飾った。結婚して子供が生まれ、夫の実家に移り住むまでその習慣は続いていた。
 生まれ育った東京を離れ、岩手県民になったのは昭和51年のことだった。子育ては自然に恵まれたところで…と自分も望んだ選択ではあったものの、いざ生活を始めてみると勝手の違うことだらけで、毎日が驚きの連続だった。大家族の中での家事、育児、親(しん)戚(せき)やご近所との付き合いと、それまでに経験のない日常に疲れ果て、何度も挫(くじ)けそうになった。周囲の人々は皆優しくしてくれたが、言いようのない孤独感がいつも胸にあり、「東京に帰りたい」という思いは、周期的に何度も訪れて私を泣かせた。
 そんな日々に、近所の公園の端に「都忘れ」が咲いているのを見付けた。忙しさに紛れて忘れていたけれど、咲く場所は違っても花は昔のままの可憐さで咲いていた…私は買い物帰りの足を止め、その花の前にしゃがみ込んでしまった。「帰りたいところがあるから帰りたくなる。東京でのことを忘れてしまえば、こんな寂しい思いをしないで済むんだろうか…」と、私は手を伸ばしてそっと花に触れてみた。勿論(もちろん)物語のように都を忘れられるはずもなく、私を呼ぶ娘の元気な声で我に返り、その後の暮らしに変化はなかった。
 私にとって現実の「ミヤコワスレ」は、娘の成長と共に自ら選択可能な友人が出来、仕事を始めたことによって外に広がる世界を得てからになる。「住めば都」と言うけれど、岩手の人も自然もいつしか掛け替えのないものになっていた。仕事を通して知り合った皆さんには、自分でも気付かなかった可能性を引き出して頂き、様々な場で発言する機会も得られて貴重な経験もした。充実した日々は、母に「もう東京は忘れたの?」と言わせるほど、東京を疎遠なものにしている。あんなに帰りたかった都会を否定して暮らしている今があるのだ。でも…生まれ育った東京を決して忘れたわけではない。ずっと昔に無くなってしまった母の実家や「都忘れ」と出会った庭、懐かしい人々との思い出も、ちゃんと私の胸にある。忘れたくても忘れられないのが故郷なのだから。
 今すぐここを離れる気はなくても、老いた母のために、いつか東京に帰る日が来るかも知れない。その時、「都忘れ」を見て思う都は、きっと岩手のこの地なんだろう。私にとっての「都」は完璧(かんぺき)に遷都したんだと、改めて思った。もうじき「都忘れ」の咲く季節がやってくる。しばらく買い求めることのなかった濃紫色の花を今年は飾ってみよう。私の2つの都を忘れないために。
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