決められた以外のせりふ85

 山崎正和氏の「世阿弥」

 
 山崎正和氏の戯曲「世阿弥」は、昨年俳優座で上演され、「文藝」に発表された折に、すでに世評の高かった作品であり、岸田戯曲賞を受賞している。こんど前作「カルタの城」と合わせて単行本となった機会に読み返してみると、やはりこれは、ただ昨年度の秀作というだけにとどまらず、まれな才能をもった若い劇作家がその力量を十分に発揮した最初の作品であり、近来のみごとな収穫といえる作品であることを、あらためて感じる。
 氏は、足利将軍義満の寵《ちよう》をうけて世に時めく壮年時代から、失意の老年に至る世阿弥を、権力者の「影法師」たることを自覚し、その自覚によって彼に拮抗《きつこう》しようとする藝術家として捉えている。「影」に徹しようとすればするほど、すでに消えたはずの「光」がますます輝いてくる。その皮肉が、将軍家の人々、世阿弥一族、乞食藝人たち、三つの群れのたくみな配置によって、繰返され、拡大され、深められてゆく。
 緻密《ちみつ》な構成と、よくひきしまった文体と、何よりも、一つのせりふが次のせりふを呼びおこしてゆく正確な動き、そのおもしろさに、私は感心した。氏はまた、人物の登場や場面の継起を、主題の必要に応じて自由に行うという大胆な試みをしており、それに成功している。これらのどの点から見ても、一つ間違えば、この作品は、理屈の多い対話とにぎやかな見せ場との混合した、重厚だが不透明な作品になり兼ねないのである。
 氏の世阿弥は、したたかな毒のある毅然《きぜん》とした人物で(それゆえ、白拍子に生ませた娘や、妻との対話にかえって哀切な響きがこもるのだが)、凡庸な甥《おい》に観世太夫の位はゆずっても、秘伝は他人にあずけてしまい、見たければ「頭を下げて見せてもらえよ」と言う。そして「この先何百年、あれ(花伝書)は無数のにせ物どもの躓《つまず》きの石となるのだ。長い長い時の歩みに、私はそうして立ちはだかってやるのだ」「義満が生きる限り、世阿弥も死なぬ」と言う。この第四幕とエピローグの垂死の老人の嘲笑には、ぞっとするような怨念《おんねん》と、するどい皮肉と、微妙なあかるい諧謔《かいぎやく》とが混り合っていて、このマスクは日本の芝居にも外国の芝居にも、ちょっと類がない。おそらく世阿弥を演じる役者にはこの場面は冥利《みようり》につきる場面である。
 出来ばえは「世阿弥」に及ばないが、残酷な現代の童話劇「カルタの城」にも、山崎氏の若い才能のひらめきは明らかに示されている。今後の氏に期待し、注目したい。
                                             ——一九六四年一〇月 東京新聞——
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