霧のレクイエム08

 秋 冷

 
 
 都会のビルがどんなに高くなっても、秋の空はそれよりもさらに高い。ビルの高さが秋空の高さを強調しているようにさえ見える。洋子は新宿の高層ビル街を望みながら、そんなことを思った。
 十月から十一月へとカレンダーの絵柄が変ってみても、洋子の周辺にはさしたる変化もない。本堂からはあい変らずなんの連絡もなかった。
 休日の昼さがり、原宿に出たついでに洋子は区立図書館に立ち寄った。
 カウンターに、いつか見たスポーツ刈りの図書館員がいるのを見つけた。
「あのう�からくり人形の歴史�返って来ました?」
 と尋ねてみた。それが目的で図書館に来たわけではなかったが、かすかに気がかりだった。
「ああ、あの本」
 図書館員は、洋子の顔を見てもなにも思い出さないふうだったが、本の名を言われてこっくりとうなずいた。
「二度もお願いしたのに……」
「ありますよ、たしか。借出した人が死んじゃって……。困るんですよね。外国旅行の最中だったから、連絡がとれなくて」
「えっ?」
 洋子はカウンターのほうへ足先を戻した。
「借りたかたが外国旅行の最中におなくなりになったの?」
「はあ」
「持っていらしたのかしら、その本をむこうに?」
「いえ、うちに置いてあったみたいです」
「なんとおっしゃるかた? 本堂和也さんじゃないかしら」
 右田輝男を誘い出すためには、からくり人形の逸品をほのめかさなければなるまい。その方面に知識がなければ、本で調べるだろう。本堂はこの図書館を時折利用すると言っていた。
 ——�からくり人形の歴史�を借出したのは本堂和也ではないのか——
 洋子は以前にも漠然とそんな想像をめぐらしたことがある。
「えーと、どうだったかな」
 スポーツ刈りが戸惑っていると、横から眼鏡の女が、キッと洋子をにらみながらカウンターに近づき、首を左右に振った。
「こちらではそういうことにはお答えしないことになっております。閲覧者の秘密ですから」
 切り口上で告げてから、今度はスポーツ刈りのほうをにらむ。この女性のほうが上役で、きっと規則にうるさい人なのだろう。スポーツ刈りがなさけなさそうな顔をしている。
「ごめんなさい。知らなかったものですから」
 洋子はペコリとお辞儀をして引きさがった。
 こうなっては借り手の名前を聞き出そうとしても無駄だろう。図書館の理念にかかわる問題に踏みこんでしまう。眼鏡の女性が許してくれるはずがない。
「いいえ」
 指先で眼鏡をつきあげ、カウンターの奥に引きさがる。
「じゃあ、御本だけ見せていただくわ」
「はい」
 とスポーツ刈りが言う。
�からくり人形の歴史�は週刊誌の大きさ。三センチほどの厚み。グラビア写真がたくさん挿入されているが、古い本なので写真はあまり鮮明ではない。
 ——本堂さんもこれを見たのかしら——
 ページをめくりながら考えた。
 記憶がはっきりとしない。だが、この本が借出されたのは去年の十一月の初旬……つまり右田輝男が死ぬ二、三週間前だったような気がする。そう思うのは、いつかあそこのカウンターで図書館員がこの本を貸出した日付をささやいていた。それを聞いて洋子は、
 ——あ、本堂さんが借りたものかもしれない——
 と、そう思った記憶があるからだ。日付のほうは思い出せないが、そう思ったのは、たとえ頭の片すみで考えたことであっても、それが可能であり、事情に矛盾がなかったからだろう。この本で読んだ知識をもとにして右田輝男を呼び出すとすれば、本の借出しは事件より二、三週間前が妥当な線となる。
 借出した男は本の返却を忘れて外国に旅立った。本堂が成田をたったのは、十二月のはじめ。返却の催促がきびしくなるのは、そのあとくらいではあるまいか。
 ——その男が外国旅行の最中に死んだ——
 もとよりそれが本堂だとは言えない。多分ちがうだろう。
 しかし、なにほどかの可能性はある。本堂からの連絡は二月の末を最後にぷっつりと途絶えてしまったのだから。
 ——ぜんぜん連絡をよこさないなんて、あまりにもひどすぎる——
 洋子はそう思い続けて来たが、人には死ぬこともある……。
 ——この本を借出した人の名前を知りたい——
 でも、今日は無理だろう。いつか機会を見て……。
 それよりも今は本堂の死について考えよう。その可能性を計ってみよう。
 ——病死かしら——
 とてもそんなふうには見えなかった。
 とはいえ本堂にはどこか普通とちがうところがないでもなかった。死すべき人の気配が皆無ではなかった。
 たとえば、人の死を聞いたとき、
「そんな感じ、あったわよね」「生き急いでいたみたいだなあ」「いい人に限って早く死ぬんだ」
 などと噂される。あとになってそんな気がするだけかもしれないが、そうばかりとは言いきれない。噂にも一定の説得力はある。つまり、死ぬ人は、なにとは言えないが、あらかじめそんな気配を周囲に放っている。今、思い返してみると、本堂にもなにかわからない気配があった。
 ——今だから、そう思うだけよ——
 第一、本の借り手が本堂ときまったわけではないのだし。
 洋子は�からくり人形の歴史�のページをくりながら、どこかに本堂の痕跡が残っていないか、注意深く捜してみた。鉛筆の走り書き。ページにこぼれ落ちているもの。
 なにもない。そう都合よく見つかるはずもない。
 からくり人形の名品はたくさんあるらしい。この本を丹念に読めば、コレクターがどんな品をほしがっているか、どんな品が売りに出されそうか、一通りの知識が身につく。右田を誘い出すこともそうむつかしくあるまい。
 ——刑事なら簡単に捜査ができるのに——
 そうでもないかな。正式な令状がなければ、きっと眼鏡の図書館員は借り手の名を明かさないだろう。
「そういうことにはお答えしないことになっております」
 切り口上で告げるにちがいない。
 笑いが浮かび、笑いが消えた。
 必要とあれば刑事は令状を用意するかもしれない。この本を返却し忘れたことが、本堂の決定的なミスになるかもしれない。もし借り手が本堂だったら、の話だが……。
 ——この本に近づくのは危険かもしれない——
 二時間ほど閲覧室にいて、洋子は図書館を出た。
 それから十日あまりが過ぎ、はっきりと秋の涼しさが感じられるようになった。暦のうえではもう立冬である。
 ——あと十日——
 軽井沢のホテルを予約した。なにはともあれ洋子は約束の日に約束の場所へ行かなければならない。
 新しいコートを買った。今年はまたトラディショナルなモードが戻って来たらしい。
 休日の夕刻、洋子は紀尾井町にある知人のオフィスを訪ねたあと、
 ——四谷まで歩こうかな——
 弁慶橋を渡って右手の歩道を踏んだ。狭い道だから車がすぐ脇を通る。モス・グリーンの車が目に映った。その色を見てナンバーに視線が映った。
 ——あら——
 車の形にも、ナンバーにも覚えがある。
 運転席はよく見えなかったが、きっと相田和美だろう。スーツのイエローだけが目に残った。車はすぐに左へ曲がってホテルの駐車場へ入る。洋子はそれを見送り、そのまましばらく道を進んだが、思いなおして踵《きびす》を返した。
 ぼんやりと予測するものがあった。
 ——相田和美がホテルへ行く——
 道からホテルの入口まで湾曲した道路が延びている。イエローのうしろ姿が駐車場を出て足早に歩いて行く。相田和美は少し腰を振るようにして歩く。その様子にも覚えがある。
 洋子は本堂と一緒に何度かこのホテルに泊まった。それ以外にもラウンジやレストランを利用したことがある。構造はよく知っている。和美のほうは洋子の顔を知らない。だから、どんなに近づいてもいいはずだが……もしかしたらロビイに本堂が待っているかもしれない。洋子は少し距離を置いて自動ドアを抜けた。
 和美はロビイを横切り、まっすぐにエレベーターに向かっている。距離を縮めた。
 エレベーターの前で和美はちらっと洋子を見たが、表情にはなんの変化もない。外国人が数人、昇りのエレベーターを待っている。群になって同じ箱に乗った。
 和美は三十四階のボタンを押す。外国人は大声ではしゃぎながら三十七と三十八を押す。
 エレベーターの表示がどんどん数を増して三十四階で止まった。和美が降りた。一呼吸おいて、
「すみません」
 洋子も同じ階に降りた。
 ホテルの薄暗い通路をイエローのうしろ姿が進んで行く。ドアの前で止まり、鍵を開けて中へ消えた。
 三四三四号室。それをたしかめてから洋子は通路を戻って下りのエレベーターを待った。
 ——和美は鍵を持っていた——
 宿泊客だから……。
 東京に家のある人が東京のホテルに泊まる、なにか特別な目的があるからだろう。男と会うため……そう考えるのが一番自然だろう。和美の場合はとくにそんな気がする。それがふさわしい。
 洋子は一階まで降り、ベル・ボーイに、
「このホテルの電話番号、何番ですか」
 と尋ね、それを聞いてから、ロビイの公衆電話のダイヤルをまわした。
「本日の宿泊をお願いしたいんですが」
 直接フロントに行ってもいいわけだが、それはたしかウオーク・インと言って、ホテルではあまり歓迎しない。なぜか理由はよくわからないけれど、電話で予約したほうがいい。
「はい。ご一泊ですか」
「ええ。できれば三十四階の三四三三号室……。思い出がありますので」
 このところこんな嘘ばかりついている。探偵ごっこが身についてしまった。
「おそれいりますが、そこは予約がございまして……。三四三五ならご用意できますが」
「じゃあ、そこでもいいわ」
「ツインのお部屋ですけれど」
「それで結構。一時間くらいあとにまいります」
「お名前をどうぞ」
「はい。仁科洋子です」
 予約をすましてからラウンジのティ・ルームに腰をおろしてコーヒーを飲んだ。
 相田和美の隣室がとれたのは好運だった。日本のホテルは防音設備が甘い。壁に耳を寄せれば、話し声の断片くらいは聞こえるだろう。
 ——きっと本堂さんが来る——
 本堂が十一月十七日に軽井沢で洋子と会うつもりなら、ぼつぼつ帰国していなければならない。外国で死んだ男が本堂でなければ、の話ではあるけれど……。
「マン・イズ・モータル」
 と、洋子はホテルのベッドに寝転がったままつぶやいてみた。
 中学三年のときに習ったフレーズ。人は死すべきもの。人間一般を言うときには冠詞をつけない。
 たしかに人は死すべきものだが、そうやたらに死ぬものでもない。こちらも真実である。本堂はやっぱり生きているだろう。図書館で小耳に挟んだ男の噂は、本堂ではあるまい。
 三四三四号室側の壁に耳をつけると、かすかにテレビの音声らしいものが聞こえる。和美は部屋で、訪ねて来る人を待っているのだろう。
 その人はなかなか現れない。六時を過ぎ、七時をまわった。もしかしたら和美はテレビをつけたまま部屋を出たのかもしれない。男と食事をするために……。洋子は気をつけていたが、ドアを見張っていたわけではない。
 ——心配ないわ——
 和美はかならず戻って来る……。そうでなければホテルに部屋を取った意味がない。
 洋子はルーム・サービスのサンドウィッチを取った。風呂に入り、浴衣に着替えた。テレビのドキュメンタリィ番組をみた。アマゾン川をさかのぼって行く。熱帯のジャングルには、さまざまな風俗と自然が残っている。古代の残骸もある。
 その番組がおもしろいので、しばらくは時間のたつのを忘れていた。隣の部屋に変化はない。
 ——私、少し異常かしら——
 うしろめたさがなくもない。洋子はけっして執念深いほうではないけれど……むしろいたって淡泊なほうだけれど、ものごとを中途半端のままで終らせるのは好きではない。知らないままあれこれ想像するのはいいけれど、最後にその想像が的中していたかどうか、一応はたしかめたい。それに、この件については洋子に知る権利がある。執念深さも、きっと許されるだろう。
 チャンネルを音楽番組に変えた。そのうちまどろんだらしい。
 ——いけない——
 はっとして目をさました。
 九時に近い。起きあがって壁に耳を寄せた。テレビの音声が消えている。隣の部屋になにかしら変化があったらしい。なにかが軋《きし》む。
 人の声が聞こえる。男と女……。とても小さな声で話している。
 ——駄目だわ——
 誤算があった。かすかな声は聞こえても、話の中身まではわからない。男の声が本堂かどうかも……。
 二人はしきりに話している。断片でもいいから聞こえればいいのだが……。テレビの音声がまた細く響く。
 カタンとドアが鳴った。隣の部屋で、しきりの戸を開けたか閉じたか、多分その音だろう。
 洋子は浴衣を脱ぎ、大急ぎでスーツを着た。靴を履いた。ドアをそっと開けて廊下に出た。いつでも自分の部屋に戻れるようにドアを開けたままにしておいて三四三四号室のドアの前に立って耳を寄せた。
 室内の風景が想像できた。テレビがついている。男はベッドでそれを見ている。女はドアに近い洗面所で化粧をなおしている。時折水音が聞こえる。女の声はかなりよく聞こえるが、男の声はくぐもっている。本堂に似ているが、ちがうかもしれない。
 ——しばらく聞いてないんだわ——
 本堂の声をしっかり覚えているかと聞かれたら、ちょっと自信がない。聞けばわからないはずはないだろうけれど……。
「あなたにどうしても聞きたいことがあるの」
 これはよく聞こえた。女は男にうしろ姿を向けたまま言ってるのではあるまいか。
「なんだい?」
 男はそう尋ね返したようだ。
 次の瞬間、決定的な台詞《せりふ》が聞こえた。その一言だけで、洋子は今夜ホテルをとった甲斐《かい》があった……。
「右田を殺したのはあなたなのね。私にアリバイを作らせておいて」
 アリバイという言葉は、はっきりと聞こえた。右田の部分は……少し遠かったが、たしかにそう聞こえた。
「ああ、殺した……かもしれないさ」
 男の声はやっぱり聞きにくい。一言、一言、低いやりとりがあって、
「そりゃそうなんだけど……。父も馬鹿なのよ。賭けごとに夢中になって、みすみす罠《わな》にはまったんだから」
 と、これは女の声。
 男が女に近づく。声が少し大きくなったから……。
「常套《じようとう》手段なんだよ。土地をまきあげる。でも、あなたを見て奴の気が変ったんだ。あなたも少しまずかったけど」
「やめて。仕方なかったのよ」
「とにかく、忘れるんだ。すんだことだから」
 本堂の声だろうか。言いかたはよく似ている……。
 ポーンと、エレベーターの止まるサインが聞こえた。女の宿泊客が二人、声高く話しながら廊下に現れる。
 洋子はいったん自分の部屋の中へ身を潜めた。
「マリコが急にお金がないって言いだしてさ」
「で、どうした?」
「私だって持ってないじゃない、そんな大金」
 二人の女はドアの前で鍵を捜している。
 ——早く、早く——
 苛立《いらだ》ってみても廊下の二人はいたってのんびりしている。
 ようやく二人が中に消えるのを待って洋子はまた三四三四号室のドアに耳をそばだてた。
 だが、テレビの音声と男女の声とが混然として漏れて来るだけ……。二人はもう奥のベッドサイドへ行ってしまったのだろう。
 またエレベーターの止まるサインがポーンと聞こえた。今度は制服のボーイ。ルーム・サービスの品でも運んで来たらしい。
 洋子は部屋に戻り、壁に近い位置にすわって隣室の気配だけをさぐった。
 ——本堂さんだろうか——
 かなりはっきりした声を聞いたはずなのに確信が持てない。
 ——今にわかるわ——
 それよりも問題は、たった今聞いた話の断片である。
 女は……相田和美は、たしかに「右田を殺したのは、あなたなのね。私にアリバイを作らせておいて」と言っていた。だったら、それを聞いている男は、本堂和也以外に考えられないではないか。
 和美の父親が賭博《とばく》に手を出したらしい。その賭博はだれかの仕かけた罠で、土地をまきあげるための常套手段である。そんなふうに聞こえた。暴力団などがほしい土地をまきあげるとき、よくそんな手を使うと、洋子もなにかの記事をよんだことがある。狙われた土地は相田マンションの敷地かしら。いずれにせよそれを仕かけたのは右田輝男だろう。
 ところが右田は和美を見て気が変った。
 ——いい女だな——
 そこで触手を伸ばす。土地のほうはあきらめたのかどうか。両天秤《てんびん》かもしれない。このあたりの事情は、右田の女性関係について書かれた記事と一致している。
 弱味を握られた和美は一度くらい右田のところへ行ったのかもしれない。そこでなにがあったか……。
 それが「やめて。仕方なかったのよ」「とにかく、忘れるんだ。すんだことだから」という会話の背景だろう。想像はつく。よく符合している。二人が幸福になるためには右田が生きていては困る。
 ——やっぱり本堂さんの声だったわ——
 相手が異なれば言葉使いも少し変る。声の調子も変るだろう。男の声は、ほんの断片しか聞かなかったのだし……。
 右田のやりくちはあくどい。和美の苦境を知って本堂の殺意がふくらむ。
 ——どうやって殺そうか——
 たまたま知りあった女が獣医で、薬剤師で、生命を操るすべを知っていた……。それから先のことは、すでに洋子は新潟のホテルで思いめぐらした。本堂は交換殺人を思いつき、そのために洋子が鈴木勇を憎むように仕向けた。
 ところが、その最中に鈴木勇が大野亀から転落して死んだ。これは事故……。不透明な出来事ばかりの中で、むしろこの事故死だけがたしかなことなのかもしれない。
 しかし、本堂はどの道どこかで鈴木勇を殺すつもりでいたのだろう。そうでなければ洋子を交換殺人にまで動かすことができない。
 ——待って——
 今夜は頭が冴えている。頭の働きにも、火事場の底力みたいな作用があるのかもしれない。
 鈴木勇は遠からず東南アジアへ旅立ち、しばらくは帰らない予定だった。そのことは鈴木勇が死んだあと、荷物を片づけに来た血縁者が漏らしていたことだった。それに、あの部屋は鈴木勇の持ち物ではない。鈴木勇は近所に挨拶をしてから旅に出て行くような男でもない。
 だから鈴木勇が旅立った直後に、本堂が洋子に、
「あの男を殺したよ」
 そう言ったならば、洋子は信じたかもしれない。現に鈴木勇は上の部屋にいないのだし……。
 本堂ならば、それを信じさせるような手立てを考えるにちがいない。むしろその方角に向けて着々と手が打ってあったのではないか。
 たとえば新聞記事のコピー。大野亀の事故のあと、洋子の手もとに贋《にせ》の新聞記事が……たぶんあれは贋物と断定してまちがいないと思うのだが、とても手まわしよく、そのコピーが送られて来た。手まわしのよさは、コピーを送ることがべつな形で本堂の計画の中に含まれていたから……。ちがうかしら。
 実際には東南アジアに旅立った鈴木勇が、トリックにより変死したことにされる。それを洋子に信じさせるためには、きっと贋の新聞記事が役に立つだろう。どうやってそれを作ればいいか、準備はできていた。それを作る印刷屋を本堂は見つけておいた……。
 鈴木勇が佐渡で事故死をしたために、記事の文面が変っただけのこと。一日あれば充分に贋物は作られる。ほかにも洋子に鈴木勇の死を、しかもそれが本堂の手による殺人であることを信じさせるさまざまな謀《たくら》みが用意されていた、と、そう考えれば、つじつまがあう。
 ——鈴木勇と本堂は繋がりがあったのかもしれない——
 いつごろから? 多分、本堂が洋子と知りあったあと……。変な男が上の部屋にいると洋子に聞かされたとき、本堂は、
 ——これは使える——
 そう考えて、鈴木勇と接触をとったのではあるまいか。フリーの風景カメラマンならば関係はつけやすい。鈴木勇を佐渡へやったこと自体が本堂の依頼だったかもしれない。
 東南アジアに旅立つ直前まで東京から離れたところに鈴木勇を置いておく。そのほうがいろいろと細工がしやすい。洋子やマンションの管理人に、
 ——あの人、どうしたのかしら。急にいなくなったわね——
 と思わせることもできる。鈴木勇自身の口から、
「ここへは帰りません、ずっと東南アジアへ行ってます」
 そう宣言されるのは、はなはだまずい。
 姿が見えないのは、死んだから……と、そう納得させる素地を作っておく必要があった。
 もしそうなら、佐渡へ行った鈴木勇の行動についても本堂は一通りわかるわけである。日程も泊まる宿も。
 本堂は佐渡へ行かなかったのかもしれない。東京にいても用は足りる。様子を窺《うかが》うために佐渡の旅館に電話を入れたところ、鈴木勇の事故死を聞かされた。実際の死より十数時間遅く……。それが洋子への連絡が遅れた理由だった。本堂自身が知らなければ、
「彼が死んだ。佐渡の大野亀で」
 と、洋子に事故直後の電話をかけることはできない。
 鈴木勇の事故死を聞いて本堂は一瞬狼狽したかもしれないが、すぐに計画を練りなおした。むしろ好都合だった。
 大切なのは、洋子に鈴木勇の死が事故ではなく、本堂が突き落としたと思わせること。そのために本堂は二つのことを考えた。
 一つは贋の新聞記事を作らせること。急がなくてはいけない。事故死のニュースが流れる可能性も充分にある。そこで贋の記事は、事故死のようではあるけれど、殺人の疑いもあるという文面になった。だが、本堂はおそらく東京にいただろうから、事故の様子を正確に知ることができなかった。実際には転落を目撃した人がいたにもかかわらず、本堂の作った記事は、死体が海に浮いているのを発見された、となっている。新聞記者がそんなまちがいを犯すはずがない。
 もう一つは贋の電話。本堂自身が刑事を装って電話をかける。洋子に電話をかけたのなら声で見破られるだろうが、相手はマンションの管理人である。安んじて刑事に化けることができる。鈴木勇の死が殺人であるらしいことをほのめかす。マンションの内部に鈴木勇を強く恨んでいる人がいないかを尋ね、洋子の姓名まで聞く。管理人はきっとそのことを洋子に漏らすだろう。みごとな計画。そして、その通りになった。
 これだけのお膳立《ぜんだ》てを用意し、あとは本堂自身が、
「僕がやった」
 と言えば、ほとんど完璧《かんぺき》だろう。疑念を生みやすい新聞記事のコピーは焼き捨てさせた。ぬかりはない。
 ——恐ろしい人——
 もしすべての想像が当たっているならば……。その男が隣の部屋にいる。
 ——どうしよう——
 今、いきなりドアをノックして隣の部屋におどりこむ……。驚いて洋子を見つめる本堂と和美、洋子はまっすぐに本堂を指さし、
「あなたは極悪人です。人間として許せません」
 それから和美を見て、
「あなたもけっして幸福になれないわ。罪が深すぎます」
 と言い放つ。
 そんな情景が脳裏を駈けぬけたが、洋子は首を振った。
 ——やめておこう——
 いきどおりが足りないのがもどかしい。
 第一、本堂は殺人の実行者ではない。人を殺したのは洋子自身である。すべてが明るみに出たとき、一番重い罪を負うのは洋子のほうだろう。本堂も無疵《むきず》ではあるまいが、彼は殺していないのだ。すると洋子だけが馬鹿な女として世間の嘲笑《ちようしよう》を受ける。好奇心にさらされる。考えるだけでもいとわしい。
 ガタン。
 隣の部屋のドアが鳴った。
 ——なにかしら——
 洋子はベッドからはね起き、ドアののぞき穴のところまで走った。考えに夢中になっていて、隣室の様子をうかがうのがおろそかになっていた。
 少し遅かった。
 二人の姿がのぞき穴の視界を通り過ぎようとするところ……。かろうじてうしろ姿が見えた。部屋を出てどこかへ行くつもりらしい。男が前を行き、イエローのスーツだけが、くっきりと映って消えた。
 ——どうしよう——
 本堂と和美のいる前へおどり出る勇気はなかった。その心理を説明するのはむつかしい。事態が一気に破滅的になるのをおそれたのかもしれない。なんによらず荒々しいことは洋子の好みではない。
 それに……恋愛のルールにも違反しているだろう。新潟の本屋でふと拾った言葉、フランスの劇作家の言葉だった。�娘にとって恋というものは一つの賭けですわ。自分の見通しに頼るほかありませんの。ですから馬鹿な娘がだまされても、それほど同情する必要なんかありませんの�
 言葉をまるごと思い出したわけではないけれども、これは洋子が日ごろから持ち続けている考えでもあった。賭けに負けたからといって、賭けに勝った人をののしってはなるまい。たとえ本堂がルールを違反したとしても、洋子には洋子の矜持《きようじ》がある。本堂に会うのなら、二人だけのほうがいい。
 そんな考えが走り抜けたのは本当だったが、洋子のとった行動はその考えとは少しちがっていた。
 鏡の前に走り、身だしなみを整え、ハンドバッグをもって部屋の外へ出た。廊下にはもう二人の影はない。
 ポーン、とエレベーターの止まる音が聞こえた。
 二人が乗りこんだらしい。
 小走りに歩いて、そっとエレベーターの前をのぞくと、二人の姿はなくエレベーターのサインが屋上に動いて行く。四十階で止まった。
 そこにはレストランとバーがある。二人は軽く酒でも飲みに出たらしい。
 洋子もエレベーターのボタンを押した。しばらく待たなければいけなかった。
「本当に見たの?」
 自分に問うてみた。のぞき窓に映ったかすかな風景……。
 だが、洋子には小さな確信があった。
 エレベーターで四十階に昇った。
「お一人ですか」
 黒い制服の男が尋ねる。
「ええ、ちょっと。バーのほう……」
 曖昧につぶやいて、待ち人を捜すような様子で中に進んだ。目のはしにイエローの色をとらえた。
 ——ね、そうでしょ——
 小さな確信は当たっていた。のぞき窓の中で、イエローのスーツになかば隠されていた男の背かっこう……。
 ——本堂さんではない——
 と思った。
 そして、今、まさしく相田和美の隣にすわっている男は本堂ではない……。そう思ったからこそここまで昇って来たのだった。
「あそこ、いいかしら」
 カウンターのあいている席を指した。
「どうぞ」
 二人からちょっと離れた席。話し声が断片的に聞こえる。聞き耳を立てた。はっきりとはわからないが、たあいのない世間話。外国の地名が聞こえる。
「なんにしましょうか」
「そうね、バイオレット・フィーズ」
 横浜のホテルで本堂に勧められて飲んだ酒を告げた。
 思考がまとまらない。
 さっきベッドの上で考えたことを、あらためて考えなおさなければいけない。築きあげた推理が少し崩れた。建築中の建物が小さな地震にあったみたいに。
 でも崩れた部分はほんの少々……。まるっきり造りなおす必要はないだろう。大部分はそのまま残っている。ところどころ修復すればいい。そうすればすぐに建物は完成する。
 ——どうしてもわからないことがあるけれど——
 和美と連れの男は楽しそうに話しこんでいる。とりわけ和美の表情が弾んでいる。
 ——いい女だわ——
 よくはわからないが、男が抱きたくなるタイプなのかもしれない。きっとそうだろう。右田輝男がこの女をほしくなったのはうなずける。
 男のほうも楽しそうだが、時折ふっと表情に暗いものが走る。
 ——なにかを恐れている——
 そんな気配がある。
 ——この男も人を殺したのかもしれない——
 わけもなく洋子はそんなことを想像した。三四三四号室の外でドア越しに聞いた言葉……。男は「ああ、殺した……かもしれないさ」とつぶやいていた。いったん「殺した」と言い、それから「かもしれないさ」と繋げていた。
 洋子はそう長くはバーにいなかった。
 二人が先に立ち、洋子もそれを見送ってから席を立った。
 部屋に戻ると、隣室からシャワーの音が聞こえた。恋人たちの甘い夜が始まるのだろう。
 ——明日は病院へ行く日——
 もう十一時に近い。こんな時間にチェック・アウトをしては奇妙に思われるだろう。せっかく部屋をとったのだから、ここに泊まることにした。
 考えなおさなければいけないことがあった。
 ホテルのベッドは、ネガティブな思案を生みそうだ。慣れないところでは、心のどこかに不安が宿っているから。わが家の陽だまりで青い空でも見ながら考えたほうが、明るい思案が浮かぶだろう。
 とはいえ、考えないわけにもいかない。
 和美は「右田を殺したのは、あなたなのね。私にアリバイを作らせておいて」と、男に詰め寄った。そんな雰囲気だった。男は「ああ、殺した……かもしれないさ」と答えた。あのとき和美は男が右田輝男を殺したと思ったのだろう。「かもしれないさ」は、行動の恐ろしさをぼかすための、ただのレトリックと考えただろう。
 愛する女のために一人の男を殺した、と、当の女に信じこませることは、恋の進展にとってはプラスに作用する。
 ——この人はそれほどまで私を愛してくれている——
 と女は感謝する。殺された男は、女に大変な危害を加えていたのだし、まちがいのないワルだったのだから……。
 だが、その恋が結婚に移行したとき、男の告白はプラスだけとは言えまい。結婚生活の持つ日常性は、殺人とは折りあえない。この人はかつて人を殺したことがある、と、その記憶はなにかのおりにマイナス要因として穏やかな日常をおびやかすだろう。「かもしれないさ」は、そのときに生きてくる。本当はちがうのさ。男は直感的にその日のための救済手段を残しておいたのかもしれない。
 ——おかしいわ——
 洋子は眠りの少し手前で笑った。和美がどう思おうと、世間がどう思おうと、右田を殺した人は洋子にだけは確実にわかっている。
 ふたたび隣室の水音を聞いたのは夢の中だったろうか。
 
 十一月十六日、洋子は病院の仕事を終え、最終の列車で軽井沢へたった。
 ゴルフ・バッグを持った客が目立つ。車内で酒宴が始まる。洋子もビールを一本だけ飲んだ。
 だが、ホテルの部屋へ入ったときには酔いもすっかりさめてしまい、かえって眠れない。
 めったに飲まない睡眠薬を飲んだ。
 それがよく効いたらしい。
 目をさますと、正午を過ぎていた。こんなに長く眠るのはめずらしい。やはり疲れているのだろう。十一月十七日……。長く待った日だった。
 シャワーを浴びると体がシャンとなる。頭も軽い。
 ——冴えてるみたい——
 長い眠りはそれだけの効果をもたらしてくれたらしい。空気がとてもおいしい。
 窓の外では秋が燃えていた。風がから松の葉の枯れた匂いを運んで来る。
 ——塩沢湖へ行ってみようかしら——
 それだけの時間くらいないでもないが、やめておこう。今日の旅はたった一つの目的のためにだけ使いたかった。
 二時すぎに、タクシーでホテルを出た。
 街は軒なみシャッターをおろしている。人の数も少ない。一番すばらしい季節。色と匂いだけが溢れている。霧が流れ始めた。
 二手橋の手前で車を降りた。
 橋を渡り、コンクリートの道を少し登ると、脇道への入口に出る。見晴台へ登る旧道である。落葉が道を敷きつめ、層を作って堆積《たいせき》している。踏むたびに足が沈む。めったに人が通らないのだろう。道とは思えない。
 少し寒い。コートの襟を立てた。
 道を進むにつれ霧が濃くなる。山に入ったからだろうか。
「午後には霧が濃くなるでしょう」
 と、天気予報が告げていた。
 耳を澄ましてみても、なんの音もない。落葉を踏むかすかな足音があるだけ……。
 赤と黄と二色のシートで覆われた石の上に腰をおろした。
 三時までにはまだ少し時間がある。
 白いカーテン。落葉が遠く近く舞っている。
 ——時間が止まっちゃったみたい——
 去年から数えて一年あまりの日時が流れている。
 ——いろんなことがあったわ——
 現実が現実のように思えない。洋子の心はすでに決まっていた。
 両の頬に掌を当て、指を耳にまで伸ばした。
 新潟で買ったイアリングが垂れている。銀の輪が三つ繋がっている。
 この銀の輪がヒントになったと言ったら、話ができすぎだろう。でも、そんな思いがないでもない。
 本堂がなにを考えていたか、本当のところはなにもわからない。この十日ばかり洋子は考えられるだけのことを考えてみた。いくつもの仮説。その蓋然《がいぜん》性……。
 AはBである。CはDである。EはFである。いくつものテーゼがある。証拠となるものはとぼしい。ほとんどが推測ばかりで……。推測が事実であるとは言えない。九十パーセントの事実。八十パーセントの事実。七十パーセントの事実……。五十パーセント以下は切り捨てよう。残ったものには、そのパーセンテージだけの可能性がある。
 鈴木勇の事故死は本当だろう。九十五パーセントくらい。残りの五パーセントに期待したいとこもあるけれど、それは捨てなければなるまい。
 ——それだけでも本堂さんは私を裏切っている——
 そこを糸口にして複雑な謎《なぞ》が解けていく。
 本堂に殺したい人がいた。これがもう一つの糸口だろう。その手段を考えているとき本堂は洋子とめぐりあい、鈴木勇の存在を知る。交換殺人はもともと本堂の心の中にあったのかもしれない。いくつかの細工をほどこし、鈴木勇に対する洋子の憎しみをかき立て……その最中に鈴木勇がたまたま事故で死んだ。若干の軌道修正。殺人を装い、それをてこにして洋子に右田輝男を殺させた。このあたりは洋子がすでに考えつくしたことだ。
 だが、本堂が殺さなければいけなかったのは右田輝男ではなかった。右田の周辺には本堂の影はない。とてもとぼしい。
 洋子は右耳のイアリングに触れ、それを取って掌にのせた。
 霧はどんどん深くなる。まるで白い部屋の中にすわっているように包まれて、足もとだけが赤と黄の模様を染めている。
 殺人を一つの銀の輪とすれば、交換殺人は二つの輪を連ねたものだ。ある一点で繋がり、それぞれが一つの輪を作っている。
 ——輪が三つもあってもいいじゃない。このイアリングみたいに——
 相田和美とその婚約者は、右田輝男を殺さなければいけなかった。本堂の殺人計画と和美たちの殺意とが触れあった。つまり、本堂の殺すべき人はほかにいた……。すると全貌が見えて来る。
 おそらく相田和美はくわしい事情を知らないだろう。銀の輪の接点は、和美の婚約者と本堂である。
 二人はどこで知りあったのか。どちらが話を持ち出したのか。
 とにかく和美の婚約者が本堂の殺したい人を殺し、本堂はその代償として右田輝男を殺害する義務を負った。そこへもう一つの銀の輪がからむ。この接点は本堂と洋子である。
 赤坂のホテルで和美の婚約者が右田殺害のことを和美に問われ「ああ、殺した……かもしれないさ」と答えたのは、こんな事情を反映している。殺したと言えば、彼は殺した。しかし、相手は右田ではない。本堂が殺したかった人である。この推理は六、七十パーセント可能性……。
 和美は本堂の名を小耳にくらい挟んでいたかもしれない。なにかしらただならないことが起きていると、その不安はあっただろう。洋子の電話に誘われて開化堂に現れたのは、そのためだったろう。
 本堂が殺したかった人も、おそらく死んでいるだろう。その現場に和美の婚約者が立っていただろう。本堂にはしっかりとアリバイのあるとき……。
 去年の十一月ごろ、どこかで、もう一つ不自然な死はなかったか。新聞を調べれば、見つけ出すことができるかもしれない。
 しかし、もう疲れた。
 それを調べるより先に今日が来てしまった。
 ——私の推理だって絶対に正しいとは言えないわ——
 本堂が鈴木勇を突き落とした可能性だって、ほんの少し残っている。それに……すべてが洋子の想像の通りだとしても、なお本堂が洋子を愛していると、そのテーゼが否定されるわけではない。たしかに本堂は洋子を利用した。それは本当かもしれない。
 だが本堂は「僕を助けてほしい」と真摯《しんし》に洋子に願い続けていた。事情を説明しなかったのは、説明したら計画がうまく運ばないおそれがあったから……。利用をしたのは本当でも、あとで手をついて謝る方法もある。利用することが本堂と洋子の将来の幸福に必要なことであるならば、それも許される。許される余地がある。そんな考えも成り立つだろう。そのことを本堂は言っていた。�死刑台のエレベーター�のビデオを洋子に見せながら……。愛しあってから、その愛をそこなう邪魔物をなくそうとしてももう遅い。邪魔物を先に排除しておいてそのあとめぐりあう。それがよい方法なのだと。
 つまり、今日、本堂がここに現れるかどうか……煎《せん》じ詰めればすべてがそこにかかっている。
 三時をまわった。
 あい変らず音はない。いっさいを無にするような静寂。洋子は幾重にも白い霧に包まれ、時間の経過さえ実感できない。
 そうであるにもかかわらず、かつてこれほど時間の経過を意識しなければいけないことがあっただろうか。
 ——本堂さんは生きているのかしら——
 何ヵ月も連絡がなかった。その沈黙はともすれば、死の気配を感じさせる。
�からくり人形の歴史�を借りた男は、外国旅行の途中で死んだ。それが本堂かどうか。その可能性はどれほどのパーセンテージなのか。その男はどこを旅して、いつ、どのようにして死んだのだろうか。
 ——せめて名前をたしかめる方法だけでもないのかしら——
 考えれば手段の一つくらいあるかもしれない。
 ——でも……もういい——
 あわい絶望が心をよぎる。
 ——だって、本堂和也さんが本当の名前かどうか、それさえはっきりしないんだから——
 そう教えられただけ。そう信じただけ。
 図書館でだれかほかの人の名前を言われたらどうしよう。今度はその人を洋子は捜すのだろうか。もう死んでしまった人を。あわい絶望を本当の絶望に変えるために……。
 いつのまにか四時になっていた。
 少しずつ暗くなる。冷たくなる。
 ——もう少し、もう少し待とう——
 できるだけ楽しいことを考えよう。
 出会いの日は鮮やかな秋晴れだった。紅葉にはまだ少し間があったが、爽やかな秋の気配が溢れていた。
 本堂は黒いセーターに黒いズボン。褐色のジャケットが周囲の風景によく溶けていた。
「猫、猫」
 おかしいわ。アミイをそう呼んでいた……。
「男、男って呼べばいいのかしら」
 洋子がそう尋ねたとき、本堂はその言葉の意味をすぐにさとった。笑顔がやさしかった。
 ——また猫を飼おうかしら——
 アミイとそっくり同じ猫。よくある顔つきだから、捜すのもそうむつかしくはあるまい。
 同じ猫を飼って胸に抱いたら、この一年が、アミイのいない一年が、さまざまなことのあった一年が、ストンと消えてしまい、去年と今とが繋がるかもしれない。
 横浜のホテルで本堂に抱かれた。
 ホテルのエレベーターには、プラネタリウムのような星空が光っていた。あの風景もいとおしい。
 本堂はギリシャ神話のことを言っていた。
「ギリシャ神話じゃ男と女は会ったときから、もう運命がきまっているんですよね」
 どんなに愛しあっていても、最後は苛酷な運命に見舞われるとか……。
 マンハッタン・トランスファーのメロディ。バイオレットフィーズ。タバコの匂い。本堂は愛撫も巧みだったわ。
 ——映画によく似ている——
 男に抱かれる歓びのことである。映画は、いったん見始めると続けて見たくなる。癖になってしまう。そこが男とよく似ている。続けて抱かれたくなる。癖になる。
 ここしばらく映画を見ていない。もう一つの癖もすっかり薄くなった。
 寒い。
 カサッ。足音を聞いたように思った。
「本堂さん?」
 白い霧に向かって呼びかけてみた。
 答はない。なにかのまちがいらしい。小鳥が落葉の上を走ったのかもしれない。
 ——あと五分だけ——
 洋子は目を閉じた。それを開けたときに本堂が目の前にたっているかもしれない。
 ——娘にとって恋というものは一つの賭けですわ。自分の見通しに頼るよりほかありませんの。ですから馬鹿な娘がだまされても、それほど同情する必要なんかありませんの——
 本当にそうだわ。洋子はもう娘というほどの若さではないけれど……。
 一つ、二つ、三つ……六十かける五を数えて目を開いた。
 霧のむこうになにかがうごめいたように思った。
「本堂さんなの?」
 立ちあがり、一、二歩あゆみ寄った。
 なにかがいるらしい。目の錯覚かもしれない。進めばそのぶんだけ逃げて行く。
 洋子は両足を広げてふん張り、右の手の指でピストルの形を作ってまっすぐに伸ばした。左手を右の手首にそえながら。
「バーン」
 子どもみたいに声をあげて叫んだ。前にもこんなことをやった記憶がある。今日がきっとその日に繋がるだろう。
 ——東京に帰ったらアミイを捜そう——
 手応えはあった。霧のむこうでなにかが倒れた。
 音に驚いて、霧の中から一きわ赤い落葉がゆっくりと落ちて来た。いっさいが霧の中に隠れてしまった。
 寒い。
 夜が駈け足で近づいて来たらしい。
 
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