迷子の花嫁05

4 刃物を持った女

 
「生の音楽ってすてきね」
 いつもロックばかりに夢中の聡子が珍しい感想を述べたのは、披露宴での席だった。
 新郎新婦の入場から始まって、ケーキカットへと続いた披露宴は、二人が「お色直し」のために席を外している今、小休止というところだった。
 そう盛大な宴ではないが、ほど良い人数で気の置けないムードになっていた。
 花婿《はなむこ》の久井隆が、大学時代にオーケストラでバイオリンをひいていたということがあって、そのときの友人たちがカルテットを組んで、今ステージで演奏し、それをBGMに食事が進められていた。
 しなやかな弦楽の音が会場に流れて、どこかホッとさせる。——聡子の感想も、ごく自然なものであった。
 大いに食欲も進み、亜由美もパンを三つも食べていた。——ついでに付け加えると、テーブルの下では、ドン・ファンがひそかに宴に加わっていたのである。
「——この分なら何もなさそうですね」
 と、亜由美は殿永に言った。
「何のこと?」
 と、聡子が訊《き》く。
「何でもないの」
「フン! 二人で内緒の話ね。いいもん。ね、ドン・ファン。仲良くしようね」
「クゥーン……」
「この浮気者」
 と、亜由美は笑って、ドン・ファンをにらんでやった。
 殿永は、お色直しに何人も人がついて行くから大丈夫と思って、座っていたのだろうが、ふと席を立つと、
「ちょっと様子を見て来ます」
 と、亜由美の方へ小声で囁《ささや》いた。
 亜由美は、殿永の皿がきれいに空になっているのを見て感心したりしていた。
「ねえ」
 と、聡子が言った。
「何よ」
「あの久井隆さんって、見かけによらず苦労人なのね。びっくりした」
 そう。亜由美も、祝辞の中で、新郎がずいぶん若いときから働いて、親兄弟の生活を支えて来たと聞いて、感心してしまった。
 人当りはいいが、それが妙に世慣れた印象でなく、人柄の良さと思わせるのが、快かったし、またそれが本当でもあったろう。
 前田小夜子の話には少々びっくりしたものの、あの久井隆となら、きっと幸せになれるだろう、と亜由美は考えていた……。
「あそこに亜由美が座るのは、いつのことかね」
 と、聡子が花嫁の席へ目をやって言った。
「お互いさまでしょ」
 と、亜由美がつついてやる。
「クゥーン……」
 ドン・ファンが、下で「何か食べさせて」と要求していた。
 
 ロビーには、珍しく人の姿が少ない。
 ちょうど今はいくつもの披露宴が同時進行中で、その分、ロビーが空いているらしかった。
 内山秀輝は、ソファに座って足を組むと、タバコに火を点《つ》けた。——シャンパンやワインの酔いが少し回って、ボーッとしている。
 もっとも、ボーッとしているのがいつもの状態という見方も、この男の場合には成り立つのである。
「——息抜きですか」
 突然声がして、内山秀輝はギクリとした様子だった。
「何だ、あんたか」
 と、大倉貞男を見て、「逃げ出して来たのさ。ああいう席は苦手だ」
「僕も、好きにはなれませんがね」
 大倉は、もう一つのソファに腰をおろした。
「——仕事のほうはどうしたんだい?」
 と、内山秀輝は訊いた。
「一向に。——一度|潰《つぶ》れると、世間は冷たいもんでね」
 と、大倉は肩をすくめた。
「そうだろうね。俺も、もし何か始めたら、たちまち大損さ。分ってるから働かない。——これが我が内山家のためなのさ」
 内山秀輝は三十五歳。三十八歳の大倉より若いが、見かけはずっと老けている。
 不健康な老け方で、頭のほうも少し薄くなりかけていた。
「しかし——」
 と、大倉が言った。「いつか、秀輝さんがお父さんの後を継がなきゃならんでしょう」
「親父はそんなこと考えてないさ」
 と、秀輝は笑って、「もう諦《あきら》めてるよ、俺のことは」
「そうですか」
「ま、俺より有紀のほうが、まだ父の血を継いでるだろうな。しっかり者だ」
「確かに」
 と、大倉は肯《うなず》いた。「しかし、現実問題として、有紀に後は継げないでしょう」
「そのときになりゃ考えるさ。親父だって、何か考えてるよ」
 秀輝の言葉に、大倉は奇妙な笑みを浮かべて、
「そうでしょうかね」
 と、言った。
「——どういう意味だい?」
 と、秀輝が大倉を見る。
「いや、何か考えておられるのかな、と思ってね」
 大倉は、ゆっくりとソファに座り直した。
「——いつも、有紀は、お義父《とう》さんに挨拶しろとうるさいのに、今日に限って、なぜか会うなと言う。そこで会いに行ったんですよ、一人でね」
「会ったのか?」
 と、秀輝が訊く。
「いや。なぜかお一人で別室におられるという。そこへ行くと、見たことのない『部下』が、絶対に中へ入れてくれない。義理の息子を、ですよ。——おかしいじゃありませんか」
「しかし……」
「確かに、式のときは出ておられた。しかし、有紀とあなたがピタリとくっついて、他の人間を寄せつけない。そして、今、披露宴の席でもそうだ。有紀は僕と並ばず、お義父さんの隣にいる。——これは、どう考えたって、普通じゃない」
「何が言いたいんだね」
 と、秀輝はじっと大倉を見つめて言った。
「ごく当り前のことですよ。——内山広三郎氏に何が[#「何が」に傍点]起ったのか?」
 大倉は、少し間を空けて、続けた。「それとも、あの、内山広三郎と名のっている男は何者か、と訊きましょうか」
 秀輝の目に、ふと危険な光が見えた。
「——勘違いしないでいただきたいな」
 と、大倉は言った。「僕はあなたや有紀が何をやろうと、構わない。ただ、自分がその仲間に入れてもらえないことが不満なんですよ」
「仲間か……。あんたは内山家の人間じゃない」
「確かにね。しかし、有紀はそうだ。僕は有紀の夫で——。そう、たとえ有紀が野口と密通していても、ですな」
「何だって?」
 秀輝が唖然《あぜん》として、「有紀と野口が?——そんな馬鹿な!」
「じゃ、当人にお訊きなさい」
 と、大倉が言った。「僕は有紀を愛しているし、有紀の方もそうだと思う。しかし、野口は……。あれこそ[#「あれこそ」に傍点]、内山家の人間じゃないんだ。用心することです」
 大倉は、ゆっくりと立ち上った。
「——では、そろそろ席へ戻ります。お色直しも、もう終るでしょう。二人が入って来るときは、拍手してあげた方が……。人を祝福するのは楽しいもんですよ」
 そう言って、大倉は戻って行った。
 内山秀輝は、じっと考え込んでいた。
 ——その唇の端は、ピクピクと神経質に震えている。
 
「お待たせいたしました!」
 と、司会者の声が響きわたった。「新郎新婦、装いも新たに入場です。拍手をもってお迎え下さい!」
 主な照明が消えると、スポットライトが会場の入口をくっきりと照らし出す。
 白のタキシードの久井隆と、真紅のドレスに身を包んだ小夜子が、腕を組んで、ゆっくり入場して来ると、ワーッと拍手が湧《わ》き起った。
「ウーン、さまになる!」
 と、聡子が唸《うな》ったのは、二人のどっちのことを言ったのか。
 亜由美も拍手していたが——ふと気が付くと、殿永が席に戻っている。いつの間に?
 太っているのに、動きが静かで、目立たないのだ。——今も、その目は油断なく、テーブルの間を巡る二人に向けられている。
 亜由美は、何かあったのかと訊いてみたかったが、音楽と拍手で、話し声は聞こえないだろう、と思ってやめた。
「ドン・ファン、あんたも拍手しな」
 と、無茶を言ってテーブルの下を見ると……いない!
 どこへ行った?
 亜由美はキョロキョロと左右を見回したが——あの「背の低さ」では、とても見えないのである。
 でも、まさか……。
 あの、小夜子のドレス。正にドン・ファンの好み[#「好み」に傍点]にピッタリである!
 その下へ潜り込むなんてことは……ないだろうけど。
 亜由美は気が気でなく、腰を浮かして、必死でドン・ファンの姿を捜したが、むだだった。
 その間に、久井と小夜子の二人は、各テーブルの間をぐるっと回って、もとの席へと歩を進めている。
 ——まあ、何とか大丈夫か。
 亜由美はホッとして、正面の席へ向って行く二人の姿を見ていたが……。
 ふと——小夜子のドレスの裾《すそ》へと、後ろから近付いて行く黒い影(?)。
 あいつ……。やっぱり!
 亜由美があわてて立ち上ろうとしたときだった。
「キャーッ!」
 と、叫んだのが、入口近くに立っていたウエイトレスの一人だったということは、後で分った。
 ともかく——一人の女が、そのウエイトレスを突き飛ばし、会場の中へと飛び込んで来たのだ。
 正面の席へ戻ろうとしていた新郎新婦めがけてその女は、テーブルの間を駆け抜けた。
「いかん!」
 殿永が飛び出す。同時に亜由美も。
 そのときにはパッと会場の明りが点《つ》き、その女が刃物を手にしているのが、目に入った。
「逃げて!」
 と、亜由美が叫ぶ。
 そのとき、ドン・ファンがタタッと駆けて行ったと思うと、駆け寄って来る女めがけて、あの短い足でよくぞ、と思うほどのジャンプを見せたのである。
 まさかこんな所に犬がいるとは思わなかったのだろう、女はギョッとした様子で足を止め、ドン・ファンにかまれまいと両手で防いだ。その拍子に刃物が床へ落ちる。
 殿永が女の腕をつかむと、
「おとなしくして! 落ちつくんだ!」
 と、お腹の底に響くような声で言った。
 女はまるで夢から覚めた、とでもいった様子で、ぼんやりと周囲を見ている。
 殿永は、司会者へ、
「続けて下さい」
 と、一言言って、女を会場から連れ出して行った。
 で……亜由美は?
 もちろん、亜由美もその女へと駆け寄る——つもり、だったのだが、途中、何かのコードに足を引っかけ、みごとにすっ転んでしまい、いやというほど膝《ひざ》をぶつけて、しばし起き上れなかったのである。
「——大丈夫?」
 と、聡子に助け起されて、
「何とか……。いたた……」
 と、顔をしかめる。
 亜由美の英雄的行動は、残念ながらほとんど評価されなかった。というのも、ドン・ファンが女に飛びかかったことが、二人を救ったというわけで、
「凄《すご》い犬ね!」
「頭が良さそうよ」
「ねえ! 品があるわ」
「知性さえ感じさせますな!」
 と、大評判。
 飼主たる亜由美の方は、ほぼ全くと言っていいほど、無視されていたのである。
「亜由美……」
「大丈夫よ」
 と、すっかり不機嫌になった亜由美は、「こうなったら、意地でもデザートまで食べてやる!」
 
「何ですって?」
 と、久井隆は言った。「僕に振られた?」
「そう言っています」
 と、殿永は言った。
「馬鹿な! 全く知らない女ですよ」
 と、久井は言った。
 ああ、痛い……。亜由美はまだ膝をさすっている。
 披露宴は、あの騒ぎが一瞬で終ってしまったので、何とか予定通りにすんでいた。
 今、久井と小夜子は、控室で殿永の話を聞いているところだった。
「ともかく」
 と、殿永は言った。「女の話では、あなたと結婚の約束をしていたのに、一方的に裏切られた、と言うのです」
「全く覚えはありません」
 確かに、久井としてはそう言うしかないだろう。——小夜子はやや青ざめた顔で、じっと床を見つめている。
「どうしますか。女は一応ここのガードマンが押えてくれています。傷害未遂にはなるでしょう。警察へ届けたほうが——と私が言うのも変ですが」
「いけませんわ」
 と、小夜子が言った。「そんな……。可哀そうです」
「小夜子」
 と、久井が小夜子の手を握って、「まさか君は、その女の言うのが本当だと思ってるんじゃないだろうね」
「私には……分らないわ。そうでしょう?」
「僕は知らない! あんな女、見たこともない。誓って言うよ」
「ええ……。信じたいわ。でも……」
「君——」
「久井さん」
 と、亜由美が止めて、「一人にしてあげた方が」
「ありがとう」
 と、小夜子は立ち上って、「これも脱がなきゃいけないし……」
 と呟《つぶや》くように言って、出て行く。
「——何てことだ」
 久井は、首を振って、「いくら何でもないと言っても、信じてくれないのか」
「動揺してるんですよ、彼女。少し冷静になれば」
「そうですね」
 と、ため息をつく。「やれやれ。——どうしてこんな目にあうんだ?」
「確かに、全く見も知らない男と愛し合っていると夢想する女もいますからね。そのためにも、ちゃんと女を調べたほうがいい」
 と、殿永が言うと、
「そうです! ぜひ調べて下さい。根も葉もない言いがかりだと分れば、彼女も納得してくれる」
「そうしましょう」
 と、殿永が廊下へ出ると、亜由美も追いかけて出た。
「——どうですか、殿永さんの印象では」
 と、廊下を歩きながら訊く。
「よく分りませんな。しかし、刺そうとしたにしても、持っていたのは、果物ナイフなんです。あれじゃ人は殺せない」
「じゃ、やっぱりおかしいですか」
「ま、どこがどうおかしいかが問題でしてね」
 と、もっともな意見を述べる。
「何て女なんですか?」
「名前も言わんのです。ボーッとしているだけでね」
 と、殿永が首を振って、「しかし、あの花嫁にしてみれば、本当に何か[#「何か」に傍点]あったとしても、当然、彼は否定するでしょうから、悩むでしょうな」
「そうですね。なかった、という証明はむずかしい」
「その通りです」
 ——二人は、会館の奥の警備室へ向った。
 ドアを叩《たた》いて、
「失礼」
 と開けると——。「こりゃいかん!」
 制服のガードマンが、床にのびていて、他には誰もいない。
「しっかりしろ!——おい!」
 殿永に揺さぶられて、ガードマンは、やっと目を開けた。
「あ……どうも。いてて……」
 と、頭をかかえて、「お茶をくれと言うんで、つい……。後ろからガンとやられて……」
「逃げるのは見なかったのか?」
「ええ……。すみません」
 殿永はハッと立ち上って、
「花嫁が危いかもしれない!」
 と言った。
 亜由美と殿永は、また[#「また」に傍点]一緒に駆け出していた。
 今度こそ、転ぶもんか!
 亜由美は勇ましくスカートを翻して、ロビーを駆け抜け、大いに注目を集めたのであった……。
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