花嫁の卒業論文04

 3 壁

 
 黄昏《たそが》れてくる空。
 駅のホームに降り立った、亜由美、ドン・ファン、聡子、そして倉本そのみ……。
「ヒマそうだな」
 と、聡子は言った。
「——さ、もうドン・ファンを出してやろ」
 と、亜由美が鍵《かぎ》をあけてやると、ドン・ファンが眠そうに欠伸《あくび》をしながら出て来て、ホームを少しグルグルと回った。
 駅から出たのは、列車の客の一番最後だろう。
「——倉本様でいらっしゃいますね」
 と、着物姿の女性がやって来た。「〈S荘〉の女将《おかみ》をしております。ようこそおいで下さいませ」
「あの、私たちのことを……?」
「お母様からご連絡で。どうぞ、車が待っております」
 やれやれ……。
 亜由美は、今夜はもう出られないだろうし、こう待ち構えられていては何しに来たのか分らない、と思った。
 旅館の名の入ったマイクロバスが、駅前で待っている。
「——さ、どうぞ」
 運転手がスライド式のドアを開けて待っていた。
 亜由美たちは、早速乗り込んだ。
「やっぱり涼しいね。——ドン・ファンはあったかそうでいいわ」
「クゥーン……」
 ドン・ファンは自慢するように鼻を鳴らした。
「じゃ、よろしいですか?」
 と、女将が声をかけ、ドアを閉めようとすると、
「あの——待って!」
 と、若い女が一人、駆けて来る。
「何でしょうか?」
「あの……旅館、特に決めてないんですけど、部屋、ありますか?」
「はあ。お一人ですか? ——じゃ、どうぞ中へ。ご一緒でよろしいですか?」
「もちろん」
 と、そのみが肯《うなず》く。「少し詰めましょうか」
「いえ、まだ充分に——」
 と言いかけた女将は、また、
「おい!」
 と呼ばれて振り返ることになる。
 あ、そうか。
 亜由美は、今乗って来た女のことを、やっと思い出した。
 東京駅のホームでぶつかった女である。
 そして——後から声をかけて来て、やはり部屋を、と横柄《おうへい》な調子で言った男は、ホームで突き当られたもう一人の「ヤクザ風」の男。
 結局、マイクロバスは亜由美たち四人[#「四人」に傍点]に、その女と男の二人を加えて出発したのである。
 助手席に座った女将は、振り向いて亜由美の方へ言った。
「お珍しいですね、大学生のお嬢さん方ばかりなんて。この温泉は、若い方の喜ばれるようなものがあまりございませんから。——どうしてこちらへ?」
「はあ」
 と、そのみがおっとりと、「卒論の準備に、と思いまして」
「まあ、卒論?」
「はい。この温泉におられた、岬信介という作家を取り上げたいと思いまして」
 ——岬信介という名が出たとたん、女将がギクリとするのを、亜由美は見てとった。
 そのみは気付かなかったかもしれないが、そこは亜由美、だてに事件に係《かか》わり合っては来ない。
 間違いなく、女将は岬信介の名に心当りがある——いや、それ以上だろう。
「岬信介の住んでいた家とか、奥様の方とか、ご存知でしょうか?」
 と、そのみが訊《き》くと、
「岬……ですか? そういう名前の方は、さっぱり」
 と、女将は首を振った。
「あら、そうですか……。でも、亡くなってまだ十五年ほどしかたっていないんですけど」
 と、そのみはけげんな顔で、「じゃ、本名は別だったのかしら。——誰《だれ》か、小説を書いていて、この地方で有名だった方をご存知ありません?」
「さあ、どうですか」
 と、女将は笑って、「この小さな町に、そんな人がいれば誰でも知っているでしょうけど。お嬢さんの勘違いではありません?」
「いえ、そんなことはありませんわ」
 と、そのみは言って、「じゃ、明日でも町を歩いて訊いてみますわ。すみません」
「いえ、とんでもない。せっかくおいでになったのに、お役に立てなくて……。もうじき着きますから」
 マイクロバスは山間《やまあい》の細い道を右へ左へカーブしながら走っていた。
 やがて、谷川の流れが緩やかになった辺りに、両岸をズラッと旅館の建物が埋め尽くしているのが目に入って来た。
「温泉の匂《にお》いだ」
 と、聡子は楽しそう。「一日十回は入るぞ!」
「ふやけちゃうよ」
 と、亜由美は言ってやった。
 マイクロバスは、岸沿いの旅館とは少し離れて建つ古びた和風の建物の前につけた。
「お待たせしました。——どうぞ」
 女将が先に降りてドアを開けてくれる。
 ともかく亜由美たちは広くて掃除の行き届いた玄関へ入って行ったのだが、
「——いらっしゃいませ」
 ズラリと十五、六人も並んだ和服の仲居さんたちに一斉に挨拶《あいさつ》されて、亜由美たちはちょっとたじろいだ。
 こういうところが日本旅館の良さというものだろうが、慣れない身には疲れる。
「——お部屋ですが、そちらのワンちゃんをお連れですので、恐れ入りますが、庭の離れをご用意いたしました。中はむしろ広いんですよ」
 と、女将《おかみ》が上って、説明する。
「もちろん結構です」
 と、そのみが言った。「どうもありがとう」
「いいえ」
 ——若い下働きらしい子が、
「お荷物を運びます」
 と、やって来た。
 が、そこへ、
「紀子さん」
 と、女将の声が飛ぶ。「あんたはいいわ」
「でも……」
 紀子、と呼ばれた女の子は戸惑った様子。
「いいの。あんたは少し休んでらっしゃい。今朝は早番でしょ? ——靖子《やすこ》さん、こちらのお荷物を離れに」
 と、女将は指示して、「お夕食はお部屋へ運ばせますか?」
「いえ、食べに来ます」
「では、六時半以降でしたら、いつでもご自由に」
「わざわざどうも……」
 亜由美は聡子と顔を見合せて、
「やぶへびだね」
 と言った。「あの若い人をわざと外して。却《かえ》って何か知ってますって宣伝してくれたようなもんね」
「そうだね。でも——岬信介のことを、どうしてあの女将さんが隠すの?」
「知らないわよ」
 ともかく、今は部屋へ落ちつくことの方が先決。
「一緒に乗って来た二人、面白かった」
 長い廊下は寒々としていたが、こういう旅館の常として、後から後から建て増ししているので、クネクネと迷路のよう。それも上り下りの坂まである。
「あれ?」
 と、亜由美が振り返って、「ドン・ファンが——。あいつ、きっとまた可愛《かわい》い女の子を見付けてついてっちゃったのよ。聡子、先に行ってて。捜して行くから」
 と、声をかけて、急いで駆け戻って行く。
「——あ、いたいた」
 廊下の奥の方、どうやら事務所らしいドアから中を覗《のぞ》いている胴長の姿が目に入る。
 だが、今回に限っては(?)、ドン・ファンに謝らなきゃいけないことになったのだ。
「——じゃ、クビですか、私?」
 という声が聞こえる。
 さっきの娘だ。亜由美はドン・ファンの上からそっと顔を出した。
 あの女将がソファにかけて、
「何もクビだなんて言ってないでしょ」
 と、笑って、「少しお休みをあげようって言ってるのよ」
「でも、お休みは——」
「私もね、少し反省したの。あんたに辛《つら》く当り過ぎたかな、ってね。だから、一週間ほど旅に出てらっしゃい」
「旅、ですか……」
「私の仲のいい人が高原のロッジをやってるの。いい所なのよ。そこで羽根を伸ばしてらっしゃい。悪い話じゃないでしょ?」
 いくらいい話でも——いや、いい話ほど、押し付けられては却って怪しいというものだ。
「——さあ、これ、おこづかい」
 と、金まで握らされるに至っては、どう見たって、亜由美たちがここにいる間、その娘を遠ざけておこうという気持が見え透いている。
「——ありがとうございます」
「善は急げよ。今夜お発《た》ちなさい」
 もうむちゃくちゃである。
「今夜ですか?」
 さすがに、ちょっと強引と思い返したか、
「じゃ、明日の朝一番の列車で。いいわね?」
「——はい」
「ご苦労さん。今夜はもういいわよ」
「はあ……」
 狐《きつね》につままれたような、とはこういう顔であろう。
 亜由美とドン・ファンが素早くドアから離れると、その娘は首をかしげつつ出て来て、廊下をさらに奥へと歩いて行く。
 亜由美は、少し間を置いてその娘について行った……。
 
「——ねえ、ねえ!」
 亜由美とドン・ファンがガタガタと下駄《げた》の音をさせて離れにやって来る。
 上ってみると、
「あ、どうも」
 布団を敷いてくれているところ。
「あ——。あの、他の二人は?」
「もうお湯に入りに行かれましたよ」
「そうですか」
 全く! こっちが手掛りを求めて苦労していた(と言うほどでもないが)っていうのに。あの二人と来たら。
 ——もっとも、亜由美だって殺人事件の捜査に来たわけじゃない。いつものくせでつい、「何か重大な秘密が」とか疑ってしまうのである。
「——じゃ、仕方ない。私も行こう!」
 と、タオルをつかんで、亜由美はドン・ファンの方へ、「あんたは残念ながら、お風呂場《ふろば》へ入れないのよ」
 と言ってやった。
「ワン」
 ドン・ファンは心外、という顔つきでひと声|吠《ほ》えたのだった。
 
「——そのみさん、まだ入ってます?」
 と、聡子が上り湯をかぶって訊《き》く。
「ええ、先に戻ってて。私、凄《すご》く長風呂なの」
 そのみはのんびりと大浴場の熱いお湯に浸《つか》っている。
 湯気が高い天井の辺りに渦を巻いて、水音が反響し、ふしぎな音をたてる。
 少し硫黄《いおう》の匂《にお》いも漂って、いかにも温泉という気分である。
 時間が少し早いせいか、そのみと聡子の他には、誰も人はいなかった。
「——じゃ、お先に出てます」
 と、聡子は言った。「その内、きっと亜由美も来ますよ」
「ええ。ゆっくりしてくから、心配しないでね」
 そのみは顎《あご》までたっぷりと湯に浸り、目を閉じた。
 ガラガラと戸が開き、聡子が出て行ったようだ。
 そのみは、家でも優に一時間はお風呂に入っている。温泉が大好き、というのも、卒論に岬信介を取り上げた理由——とまで言うのも変か。
 熱いお湯が体の奥へしみ込んでくるようで、何だか時間に追われたり、テストで徹夜する暮しの垢[#「垢」に傍点]がすっかり溶けて流れ出して行くようでもあった……。
 けれど、むろんこんな小さな温泉町にも、愛も憎しみもあって、だからこそ岬信介は心中してしまったのだろう。
 何しろ著名な作家ではないから、調べたくても資料がない。心中した相手の女性は〈俊子《としこ》〉とだけしか分らなかった。
 彼女がいくつだったのか、なぜ心中しなくてはならなかったのか、すべてはこれから調べるのだ。
 岬の生き方が、作品にどれほど係《かか》わっているかは、また別の問題で、当然人と作品は別物という考え方もある。
 ただ——岬信介の、活字になった数少ない作品の一つは、男女の心中の話で、そのみはその小説に心打たれて、彼を取り上げる気になったのである。
 この旅館の女将《おかみ》の態度がおかしいことには、そのみも気付いていた。きっと岬信介のことを知ってはいるのだろうが、「心中した無名作家」なんて、町の恥でしかない、と思っているのだ。
 どんな有名作家も、しばしば故郷では好感を持たれていない。そんなものなのだろう。
 ガラガラと戸の開く音がした。
 塚川さんかしら? ——本当にあの人って、変ってて面白い。
 そのみにそう言われたくない、と亜由美なら思うだろうが……。
 そのみは、ゆったりと体を伸ばして目をつぶっていた。その誰かがお湯に入って来る。
 そのみは目を開けたが、濃い湯気を通してその女はぼんやりと浮かび上るだけ。
 ま、別に誰だっていいんだけどね。——ここには大勢の客が泊るんだから……。
 そのみはまた目を閉じて、その女がゆっくりと近付いて来るのに全く気付かなかった。
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