くちづけ32

 冷たい床

 
 
 
 病院へ着いても、すぐには健郎の様子は分らなかった。
 
 大きな病院で、事故の負傷者や、酔って転んでけがをしたとかいう人など、次々に救急車で運び込まれてくる。
 
 ストレッチャーをガラガラと引きながら、看護婦が駆け回っている。——陽子と亜紀は、邪魔にならないように、隅の方に立っているだけだった。
 
「——やっと分った」
 
 と、警官が戻って来て言った。「ついて来て下さい」
 
「あの——」
 
 と、亜紀は健郎の容態を訊《き》こうとしたが、やめておいた。
 
 何かあれば言ってくれるだろう。
 
 しかし、今は健郎の家族——特に、ミカに会うのが辛《つら》かった。
 
 薄暗い廊下を歩いていく。病院の夜は早いのだ。もうどの病室も消灯しているようだった。
 
 廊下の一隅に休憩所のように引っ込んだ場所があり、そこで話し声がした。
 
「——明日、検査をしませんと」
 
 と言っているのは白衣の若い医師で、カルテを見ながら、「何か薬のアレルギーとか、ありませんか?」
 
 と訊いている。
 
 ミカがいた。青ざめて、じっと唇をかみしめている。
 
「——今、意識は?」
 
 と、訊いているのは父親だ。
 
「痛み止めで、ボーッとしているでしょうが、一応お話はできますよ。短時間にして下されば」
 
「じゃあ……」
 
 病室の方へ行きかけて、ミカが亜紀に気付いた。
 
 亜紀は、近付いて行けなかった。足がすくんで、動けない。——陽子が進み出ると、
 
「あの——金倉です」
 
 と、頭を下げて、「とんでもないことになって……。ご迷惑をおかけして、本当に申しわけありません」
 
 健郎の父親は、詳しい事情をよく知らないのだろう、やや戸惑い顔で、
 
「いや、どうも……」
 
 と、会釈しただけ。
 
 ミカが、亜紀の方へ真《まつ》直《す》ぐ歩いて来た。
 
「ミカ、ごめんね、私——」
 
 と言いかけるのを、
 
「亜紀がお兄ちゃんを殴ったわけじゃないからね」
 
 と、ミカは遮った。「でも、二度とお兄ちゃんに近付かないで!」
 
 ミカの目は、燃えるような怒りを叩《たた》きつけて来た。亜紀は何も言えなかった。何が言えただろう。
 
 見ていた陽子は、思わず口を挟もうとしたが、亜紀がすぐに気付いて止めた。
 
「もう帰って」
 
 と、ミカは言った。「亜紀がいたら、また狙《ねら》われるかもしれない」
 
 ミカが足早に病室へと歩み去ると、両親は追いかけるようについて行った。
 
 陽子は、亜紀の肩にそっと手を触れて、
 
「ミカさんも、今は興奮してるのよ」
 
 と慰めた。
 
「ううん。——ミカの言う通りだわ。私のせいなんだもの、こんなことになったの」
 
「亜紀——」
 
「帰ろう、お母さん」
 
 と、亜紀は言った。
 
 警官は、少し離れて立っていたが、
 
「まあ、待ちなさい」
 
 と、声をかけて来た。「人間、カッとなると、心にもないことを言うものだ。君も、そんなに気にすることはないよ」
 
 理屈では、そうかもしれない。
 
 しかし、健郎のことをミカが好きだということ——たぶん、兄妹という仲以上に——も含めて、亜紀とミカにしか分らないことがいくつもあった。
 
 それはどう説明したところで、他の人には理解してもらえないものだ。
 
「ともかく、今はあんなことをした犯人を見付けることさ。そうだろう?」
 
 そうだった。どんなに辛くても、帰ってしまうわけにいかないのだ。
 
 亜紀は犯人を知っている。この罪を償わせなくては。
 
 警官が医師と話をして、病室の中へ入って行った。
 
 重苦しい時間が過ぎ、亜紀と陽子はじっと廊下に立ったまま動かなかった。
 
 ——やがて、ドアが開き、ミカたちと警官が出てくる。
 
 警官が手招きした。亜紀は、急いで進み出た。
 
「——今、話を聞いたがね」
 
 と、警官はむずかしい顔で言った。「誰に殴られたか、当人は見ていないんだ」
 
「じゃあ——」
 
「後ろからいきなり頭を殴られ、気が遠くなったところを、公園の中へ引きずり込まれて殴られたりけられたりした。しかし、犯人の顔は見ていないんだよ」
 
「でも……あの男ですよ」
 
 と、亜紀が母を振り返って、「お母さんが電話で聞いたんですから」
 
「しかし、声だけだ。君のお母さんも、そうはっきり誰の声と聞き分けられるほど、その男を知らないだろう?」
 
「初めてです、そのときが」
 
「それでは、立証するのはむずかしいね」
 
 と、警官はしかめっつらになって言った。
 
 思いもよらない話に、亜紀は呆《ぼう》然《ぜん》としてしまった。
 
 誰が健郎をひどい目にあわせたか分っているというのに、捕まえることができないなんて……。
 
「しかし、その男のことは当ってみるから。気を落とさないで」
 
 と、警官は言ってくれたが、亜紀は無言で肯《うなず》くことしかできなかった。
 
 ——亜紀と陽子は、家に戻ることにした。
 
 亜紀は、ミカに何か言って行きたかったが、向うは全く亜紀を無視している。諦《あきら》めるしかなかった。
 
「お母さん、行こう」
 
 と、促したとき、
 
「金倉さん。——亜紀さん、ですか?」
 
 夜勤の看護婦が呼びかけた。
 
「はい、私です」
 
「患者さんが、お会いしたいとおっしゃってますよ」
 
 亜紀は思わずミカを見た。ミカも亜紀の方をにらむように見たが、兄が自分でそう言っているのなら仕方ないと思ったのか、聞こえなかったふりをした。
 
「じゃ、ちょっとだけ!」
 
 と、亜紀は言った。
 
 病室の中へ入ると、薄暗い中、ベッドの健郎が小さく手を上げて手招きした。
 
 亜紀は、そろそろとベッドに近付いて、
 
「健郎さん——」
 
 と言ったきり、言葉が出なくなってしまった。
 
 頭といい顔といい、手も足も、包帯でグルグル巻きにされている。
 
「——凄《すご》いだろ」
 
 と、かすれた声で、「口、あんまり開かないんで、聞こえないかな?」
 
 首を振って、亜紀は傍の椅《い》子《す》に腰を落とすと、泣き出してしまった。
 
「ごめんなさい……」
 
 と、ベッドの上に顔を伏せ、泣き声が洩《も》れないようにした。
 
 頭に何かが触れて、やっと顔を上げると、包帯をした右手が、そっと亜紀の頭をなでていた。
 
「健郎さん……」
 
「君が悪いんじゃない。——いいね?」
 
「でも……」
 
「しっかりしなきゃ。向うの狙いは、君らを追い詰めることなんだ。分るか? 君が元気をなくしたら、奴《やつ》らの思う壺《つぼ》だ」
 
 そう言われてハッとした。
 
「——分ったわ」
 
 と、涙を拭《ふ》く。「もう泣かない」
 
「そうだ。——頑張れよ。僕は力になれないかもしれないけど」
 
 包帯の中で、健郎の目は笑っていた。
 
 亜紀は、健郎の包帯した手を握りしめるわけにもいかず、ただ心をこめてさすっていた。
 
「——薬のせいか、眠いよ」
 
 と、健郎は目を閉じながら言った。
 
「お見舞に来ていいですか?」
 
 と、亜紀は訊《き》いた。
 
「うん。でも……無理するなよ。ともかく今は君の家のことが……」
 
「はい」
 
「もう帰って……。君の、彼氏に相談してごらん。僕の代りに、力になってくれるよ」
 
 亜紀は胸をつかれた。
 
 しかし、同時に、君原がこんな風に大けがをして横たわっているところが目に浮かんで、ゾッとした。
 
「じゃあ……」
 
 と、亜紀は立ち上ると、「もう行きます」
 
「うん……」
 
 亜紀はそっと健郎の方へかがみ込むと、包帯の合間に覗《のぞ》く唇に自分の唇を触れさせた……。
 
 
 
「もう寝なさいよ」
 
 と、陽子は家に入ると、亜紀に言った。「明日も学校よ」
 
「うん」
 
 ミカのことを考えると気が重い。しかし、健郎の言うように、学校をやめたりしたら、結局この家からも逃げ出してしまうことになるだろう。
 
 今は、これまで通りの暮しを守っていくこと。それが何よりの力になる。
 
「お風《ふ》呂《ろ》、入る?」
 
「もう、冷めちゃってるわ」
 
 と、亜紀は言った。「シャワーだけ浴びて寝る」
 
「そうしなさい。お母さん、少し横になってるわ。出たら声をかけて」
 
「うん」
 
 大丈夫? そう訊こうとして、亜紀はためらった。
 
 大丈夫、と答えるに決っているが、その実、大丈夫なはずはない。階段を上って行く母の後ろ姿には、疲れがにじんでいた。
 
 亜紀は、君原の所へ電話したかった。詳しい話はできなくても、君原の声が聞きたかったのだ。
 
 居間の電話に手を伸ばして、少し迷っていると、電話が鳴った。急いで取ると、
 
「——もしもし」
 
 と言った。「——もしもし。どなたですか?」
 
 あの男だろうか? 亜紀がじっと耳を澄ましていると、思いがけない声が聞こえた。
 
「亜紀か……」
 
「——お父さん!」
 
 亜紀は息を呑《の》んだ。
 
 まさか——。
 
 父が電話してくるとは、亜紀は思ってもいなかった。健郎のこと、君原のこと、母のことで頭が一杯だった。父のことを、忘れていた。
 
「元気か」
 
 と、父が言った。「——もしもし、聞こえるか?」
 
「うん」
 
 向うはずいぶんやかましい所のようだった。音楽がかかっている。人の笑い声も聞こえている。
 
「心配かけて、すまん」
 
 と、正巳は早口に言った。「気になってな。お前——」
 
 何か怒るような声がした。正巳があわてて、
 
「もう切る。母さんを頼む」
 
「お父さん! もしもし!」
 
 亜紀は、ツーツーと連続音の聞こえている受話器を見つめていた。
 
 どうして言ってやらなかったんだろう。もう、お父さんなんかじゃない! ——そう怒鳴ってやれば良かった。
 
 お父さんのせいで、ミカのお兄さんがどんな目に遭ったか、ミカとの友情までめちゃめちゃになってしまったのだと……。
 
 しかし——亜紀は思い付かなかったのだ。父が電話の向うにいるということ、そのことに圧倒されてしまっていたのだ。
 
「——亜紀」
 
 母の声に、ハッと受話器を置く。
 
「お母さん……」
 
「電話?」
 
「間違いよ。こんな夜中だもん。間違いに決ってるじゃない」
 
 と、早口に言う。
 
「亜紀」
 
 陽子は居間へ入って来た。「お父さんね? そうなのね」
 
 亜紀は、チラッと目を伏せて、
 
「いいじゃない、誰だって」
 
「亜紀。どうだった? お父さん、元気そうだった?」
 
 亜紀は、母の言葉をすぐには素直に受け止められなかった。私たちを捨てて行ったお父さんが元気かどうかなんて、どうでもいいじゃない!
 
 しかし……亜紀は肩をすくめて、
 
「心配かけて、すまない、って。謝るくらいなら、出てかなきゃいいんだよね」
 
「どこにいるとか、言った?」
 
「何も。——凄くやかましいところだったよ」
 
「やかましい?」
 
「よく分んなかったけど。すぐ切っちゃった。たぶん……働いてる所からかけたんじゃないかな」
 
 亜紀は、話しながら、初めて自分でもそう思ったのだった。
 
 亜紀の言葉に、陽子はしばし沈黙した。
 
 安っぽい音楽、人の笑い声、怒鳴り声。——こんな時間に。
 
 もし、そこで働いているのだとしたら……。お父さん、何をしているのだろう。
 
「——お母さん」
 
「もう寝なさい」
 
「うん……。でも、シャワー浴びるよ。お父さんが出てっても、シャワーくらい浴びるよ」
 
 陽子は亜紀を見て、ちょっと笑った。
 
「好きなだけ浴びてちょうだい」
 
「うん」
 
 亜紀は浴室へと姿を消した。
 
 陽子は、ソファに座り込んだ。——横になっていたとき、下で電話の鳴るのを聞いて、急いで起き出して来た。そのせいで、少しめまいがする。
 
 座っていれば良くなる。きっと、大丈夫。
 
 そんな気弱なことを言っている場合じゃない。これから何が起るか。——まだ序の口なのだ。
 
 はっきりしているのは、誰だか知らないが——その「浅香八重子」とかいう女なのか——この家と土地を、陽子たちから取り上げようとしている、ということだ。
 
 それにどうやって対抗すればいいのか、陽子と亜紀には手に余る問題だ。
 
 できるだけ早く、誰かこういうことに慣れた人に相談して力になってもらうしかない。
 
 陽子は、両手で顔を覆って、ため息をついた。そして——電話の音に飛び上りそうになった。
 
 正巳からだろうか? またかけて来たのか?
 
「——はい」
 
 と、出ると、
 
「良かった。一人ですか」
 
 円城寺がホッと息をつく。
 
「お宅からですか?」
 
「そうです。家内は薬をのんで寝ました。大丈夫です」
 
「円城寺さん……。『大丈夫』なんて言葉、奥様に対して失礼ですわ」
 
「申しわけない……。家内は何も言いませんでしたが」
 
「もう、お目にかかるわけにいきません」
 
「分っています。ただ——心配だったんです。その後、どうしたかと思って」
 
「ありがとう。でも——」
 
「力になれることがあれば、言って下さい」
 
 と、円城寺は言った。「何かあなたの役に立ちたい」
 
「ありがとう……。もし助けが必要になったら、遠慮なく押しかけますわ」
 
「きっとですよ」
 
「ええ、きっと」
 
 陽子は、円城寺の気持を疑いはしない。正直、嬉《うれ》しいと思ったのだった。
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