NR(ノーリターン)22

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 朝、起きてリビングに行ったら、眉子叔母さんは新聞を読んでいた。
 たいしたもんだ、日本語の新聞を読みこなすの。アパートメントに同居するようになって、早速、二紙を契約。社会に対する関心が強いのねえ。
 叔母さんは、顔を上げた。なんなの、という感じで俺を見る。
 俺は、何も言ってないぜ。
「あなたの伝記的な過去について、また、聞きたいの? 私は、実際、全然知らないのよ。姉は、ふだんから、離婚した夫のことや日本に残してきた息子については、触れたがらなかった。今回は急なことだったし、あなたが事故で記憶を失ったってことと、そうね、あとはあなたの年齢ぐらいしか聞いてない」
 昨日の続きをする気にはなれなかった。
「もう、いいよ、そんなこと。たださ、俺、昨日寝る前に不思議に思ったんだけど、なんでバイトなんかしてたんだろう? こんなところに住んで、金に不自由してなかったんなら」
 眉子叔母さんが何かしゃべりそうになったのを、俺は手で止めた。
「言いたいことはわかる。まず、サリナや店長だって男の言う、俺がアルバイトをしていた、というのが事実だと仮定したうえでの疑問」
 眉子叔母さんは、深くうなずいた。
「そうよ。そうやって、ひとつひとつ考える。私は前に思い出せって言ったけど、まず考えることがあなたにとって大切なのかも」
 前から思ってたんだけど、叔母さんて、こどものくせに賢いの。こんなにえらそうな口きくなんて。
「アルバイトって、パートタイムの労働ってことよね? じゃあね、それをね、いまやってみたいのかどうかってこと。どう?」
 朝のディスカッションの時間かよ。
「わからないな。仕事の種類も知らないし。ともかく、走ってるだけじゃ暇だったのかなあ」
 一応、俺、言われるように、ちゃんと考えてみたのよ。
「それとも、あなたは労働こそが社会参加である、という正当な感覚を持っていたのかしら」
「え?」
「つまり、あなたは高校を卒業したあと、大学やその他の教育機関に進むことはなかった。職にも就かなかった。クラブチームにはいって陸上競技のトレーニングをしているだけでは、世の中との接点が足りない。そこで、パートタイムの労働者になる道を選んだ」
 立派な学説を展開されてしまった。
 でも、そんなこと言われたって、俺自身としては実感はない。
 叔母さんが力説するみたいに、いまの時点で考えようとしてもさ、退院してからの時間があまりに短いじゃない。「社会参加としての労働」の意欲なんて、まだ起きてないのは確か。
 考えたって、結論なんて出るはずない。
 それで、眉子叔母さんと俺は、街に出かけることにした。
 俺にとっては、社会復帰のための一種のリハビリであり、叔母さんにとっては日本観光。いや、「世の中との接点」を求めている、って言うのかな?
 眉子叔母さんは、デパートに行ってみたいんだって。
 店に入ると、人がすごく多い。みんな、何しに来てんだ? そんなに買わなきゃいけないものがあるのか?
 俺は、ちょっと、びびってしまったけど、叔母さんは元気。
「ひとまず、エスカレーターで、いちばん上の階まで行きましょう」
 興味しんしん、っていう感じであたりを見回している。
「割と、高級感を出そうとしてるみたいね。エルコルテイングレスみたいなスペインのデパートに比べて」
 インテリアから時計・宝石。家庭用品に婦人服売場。叔母さんはすべてに興味を示す。俺は、ついていくだけで、せいいっぱいだぜえ。
 何かあると、すぐに手にとってスペインとの違いとか教えてくれる。そんなふうにしてるとさ、十五歳の女の子。
 洋服の試着にまで、つきあってしまった。
 日本の気候にあった服がいるらしい。意見求められて(意見なし)、鏡の前でポーズとってる眉子叔母さんを見てた。
 そしたら、サリナが言うみたいに(サリナ、どうしてる?)、叔母さんたら、まあ、かわいくないわけではない。
 それであまりの刺激の多さに、夕方帰ってきたときにはくたくたになっていた。だって、地下の食料品売場まで制覇したんだ。
「私、ちょっと疲れた。部屋で休むことにする」
 さすがの眉子叔母さんも、そう言った。
 まったく賛成の俺が、自分の部屋にはいり、照明のスイッチを押す。
 と、
「お帰りなさい」
 ベッドから起き上がるやつがいた。
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