猫の事件25

 海の眼

 
 
 少年は日暮れの埠頭《ふとう》に立ってゴム風船を海に飛ばしていた。
 黒いズボンに、まっ白いタートル・ネックのセーター。絵本の中の挿し絵のようだった。
 少年の背後から吹く北風にあおられて、いくつもの風船が黒い雲の渦巻く海の上に長い列を作って散って行く。
 少年のかたわらにリヤカーが一台。リヤカーには魚雷のようなボンベと、大きなバケツが五、六箇置いてある。
 ——なにをしているのかな——
 私は散歩の足を伸ばして近づいてみた。
 海は沖のほうから暮れ始め、雲と水平線の境目もはっきりとはしない。
 バケツの中には二センチ立方くらいの氷がいっぱいに詰まっている。よく見ると、その一つ一つの氷塊に糸がついている。枠で仕切った水の中に糸の一端を一本一本入れ、そのまま凍らせたらしいとわかった。
 ボンベの中には水素がつまっているのだろう。少年はボンベからシューッとゴム風船の中に水素を入れる。そしてバケツの中から出ている糸で器用に風船の口を縛り、それを埠頭の端から海へ放していた。
 氷の重さと水素の浮力が、ちょうどよいバランスをとっているらしく、風船は一瞬空中にピンと立って�気をつけ�の姿勢をとる。と見るうちにたちまち強い風にあおられ、いたいけな童子が�いやいや�をするみたいに首を振って遠ざかる。
 少年はずいぶん前からこうして風船を飛ばしていたのだろう。海に散った風船は、ざっと数えて見ただけでも七、八十箇くらいありそうだ。
「なにをしているんだ」
 声をかけたが、少年は知らん顔でそのまま作業を続けている。声が風に切られて聞こえなかったのかもしれない。
 私はさらに足を進めて、
「おい、なにをしている?」
 と、今度は声高に言ってみた。
 少年はピクンと振り向いた。
 十二、三歳くらいだろうか。色白の、端整な面差《おもざ》しだ。さぐるような白い視線がジロンと飛んで来る。切れ長の美しい眼。だが、眼差しは暗く、かすかに無気味でさえある。
「風船を飛ばしているんだよ」
 声が幼い。
 少年はそう言いながらも手を休めない。赤い風船がまた一つ飛んだ。
「どうして風船を飛ばすんだ?」
「べつに……」
 身ぶりが�お前には関係がない�と告げている。
 私は黙ってそばに立ち、タバコをさぐりながら少年の奇妙な仕ぐさを眺めていた。少年は独り薄く笑って、この遊びを楽しんでいるようだ。
 青い風船が飛び、黄色い風船が青い兄貴を追いかける。
 突然、少年が振り向いた。
「教えてあげようか」
「ああ」
「これはみんなママだよ」
 すぐには言葉の意味がわからなかった。ママと言えば母親のことだろう。どれが少年の母親だというのか。最前からの様子を考え合わせて私はふと幼い狂気を連想してみた。
「ママはきれいだったよ」
 そうだろう、この少年の母親ならば……。私は少年の面差しのうえに同じような顔立ちの女を重ねてみた。
「それで?」
「夜になると、いつも裸になって抱いてくれたんだ」
 本当かいな。頭の中のイメージが急になまめかしさを帯びた。少年の、若い母親……まっ白い女の裸形が浮かんだ。形の崩れかけた豊満な乳房と淫らに繁る恥毛も。
「うらやましい?」
 思いのほかあどけない調子で尋ねられ、私はあわてて狼狽の色を隠した。
「ああ、うらやましい」
「マシュマロ……知っているだろ」
「知っている」
 母親の肌がそうだというのか。それも納得がいく。
「好きかい?」
 大人の心をさぐるような、厭な上目使いだ。
「なにが? マシュマロかい」
「うん」
「あんまり好きじゃない」
「オレも好きじゃない。でも触ると気持ちいいよ」
「お父さんは?」
 そう尋ねたのは少年の環境を考えてみたからだ。
「いないよ」
「ママと二人っきりなのか」
「うん。でもママがよそのつまらない男とくっついたからね」
 ませた台詞を言う子どもだ。
「つまらない男かどうか君にわかるのか」
「それくらいわかるさ」
「どうして?」
 少年は答えない。背を向けたまま相変らず風船を飛ばし続ける。タバコがチリチリと焦げる。
 気がつくとバケツの中の氷はうっすらと赤い色を帯びている。赤と言うより赤黒い色を帯びて光っている。
「オレを捨てようとしたからね……。で、殺しちまったんだ」
 少年は奇妙に透明感のある、無邪気な笑いで笑った。それにしても�殺す�という言葉は少年の年齢にそぐわない。
「まさか」
「本当だよ。隣に製氷所があって、よく夜勤を頼まれるんだ」
 また話がピョンと飛んだ。
「…………」
「冷凍庫はマイナス二十度くらいまでさがるからね。ママをカチカチと凍らせて、それから砕氷機にかけて……。夏に食べる氷イチゴ知ってるだろ。魚のお腹に入れる、こまかい氷を作るのに使うんだよ。あの機械さ。ママの体は五分くらいでみんなかき氷になっちまったよ」
 言われてみれば、氷の色はどこか血の色に似ている……。
 私はゆっくりとタバコの煙を吐いた。
「嘘がうまいな」
「嘘じゃないよ。もうママはどこにもいやしないさ。だれが捜したって見つからないよ。あんなにきれいなママがみんなかき氷になっちまったんだから、ちょっとかわいそうだったな。ずっと前�死んだら空へ行きたい�って言ってたから、オレ、空に飛ばしてやろうと思ったんだ」
 少年の手のぬくもりで氷が少し解ける。掌も赤い滴りで濡れている。
 少年は独り言でも言うように視線をそらしたまま話し続けた。
「オレ、学校から帰ると、よく製氷所のおじさんの手伝いをしたからね。知ってるんだよ。キュービック・アイスを作る機械にかき氷をつめて、一つ一つに糸を入れて、もう一度凍らせたんだ」
 得意そうに言葉尻をちょっと高くあげた。
 本当にそんなことができるのだろうか。
 テレビのCMでバナナが氷同様に固く凍りつくのを見たことがある。人間の体だってあんなふうにならぬものでもあるまい。もともとあらかた水分なのだから……。それを砕氷機にかけて粉粉にする。それをさらに格子の枠の中に入れてキュービック・アイスにしてしまう。
 馬鹿らしい。そんな惨酷なことが……。
 だが、待てよ。海の匂いに混って、かすかに血なまぐさい香りがフッと鼻を刺す。どこかに魚の死体でも転がっているのだろうか。
「お祭りに行くだろ」
 少年の話題はどこへ飛んで行くかわからない。まるで風船のように。
「ああ、たまにはね」
「オレ、風船売りの手伝いをやったこともあるんだ」
 これは本当だろう。風船に水素を入れる手つきは慣れたものだ。
「いろいろやるんだな」
「ママはたいていうちにいなかったもン」
 母と子と二人だけのさびしい生活。美しい母親はどこでどんな生業を営んでいたのか。どんな男と逃げようとしたのか。夜ごとに少年を抱いたというのは本当だろうか。
 母が少年を捨てようとしたとき、少年は嫉妬に狂ったのだろうか。
「ボンベを貸してくれるところも知ってたからね。ママをみんな空へ飛ばしてやるんだ」
「大人をからかっちゃいけないよ」
「そう思う?」
「ああ、思う」
「なら、それでもいいよ」
 少年はプイと背を向けた。
 バケツの中をのぞくと、もう氷塊はいくつも残っていない。底のほうに一つだけ黒い塊を埋めた氷が転がっている。
「その……底のほうにあるのは、なんだい? 少し色が違うじゃないか」
 少年もバケツの中を見た。
「ここにあったのか。機械で削るとき、眼の玉が一つだけ転げたんだ。それだけはそのまま凍らせたんだ」
 少年は悪戯《いたずら》っぽい眼差しで私を見つめた。
 透明な氷の中に、なにやら不確かなものがあった。それが最後の氷塊だった。
 ——人間の眼だ——
 そう思ったとき、風船が少年の指を離れた。
 四角い氷の中に——まるでなにかのお菓子みたいに焦点の定まらない黒い眼があった。糸にあやつられ、宙に浮き、ボンヤリと虚空を見つめている。風に揺れ、ツンツンと弾みながら私を見ている。
 手を伸ばしたが、風船はあざけるように埠頭のきわを離れ、なおも眼下のもの悲しい風景をじっと見おろしている。
 ——少年の眼に似ている——
 わけもなくそう思った。
 一きわ強い風が吹く。
 風船は叩かれたように揺れ、数多《あまた》の風船を追って高く、高く飛ぶ。眼下には荒れた海があるだろう。地上の風景はみるみる小さなものと変っただろう。
 私は気を取り直して振り向いた。
 少年の姿はすでになかった。
 そしてふたたび海を見たときには、風船たちの長い列も渦巻く雲に飲まれて消えていた。
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