ノアの子孫たち

 朝。ベッドのなかで目ざめたその男は、横たわったまま窓からそとを|眺《なが》めていた。彼はそれが好きなのだった。だから、ベッドの位置も窓の近くにしてある。

 メロン・マンションの四階の一室。そとには春があった。うす曇りの空。まもなく桜がいっせいに咲く。桜は春の訪れをなんで知るのだろう。樹の一本一本はうちあわせもしないのに、ほとんど同時に咲き、同時に花を散らすのだ。生命の微妙な神秘というべきだろうか、精密装置のような正確さというべきだろうか。人間とくらべて……。
 人間とくらべてどうなのか、彼には結論が出なかった。しかし、なにも考えないよりは、ここまででも考えたほうがいいというものだ。朝のベッドからそとを眺める習慣はいいことだと、彼は自分の空想好きを理屈づけた。
 彼は津田といい、四十五歳。結婚の経験はあったが、妻とは五年ほど前に別れていた。性格があわなかったのだ。そして、いまはひとりぐらし。べつにそう不便も感じていなかった。
 ベッドのそばの台の上で電話が鳴りはじめ、彼の空想を中断した。こんなに朝はやく、だれからだろう。津田は手をのばして受話器をとった。相手の声が言った。
「おい、大変だぞ。動物園のサルの山を知っているだろう。そこのたくさんのサルが、どういうわけかいっせいに知能が高くなって、集団脱走をした。そちらに向かっている。気をつけたほうがいい……」
「なんだって。本当か、それは。いったい、どなたです」
 津田は受話器をにぎりしめ、ベッドからおりながら聞きかえした。相手は言った。
「……こちらはジュピター情報銀行。恒例のエイプリル・フール・サービスでございました。きょうは四月一日。いまの一瞬、いくらかびっくりなさり、いくらかおもしろがられたことと存じます……」
「なんだ、そうだったのか。わたしとしたことが……」
 津田は苦笑いした。そのジュピター情報銀行は彼の勤務先なのだ。自分の会社のサービスで、自分が驚いてしまったのだ。しかし、それでいいのだろう。たぶん、お得意先の人の全部が、いまのことで適当に驚いてくれたにちがいない。
 このサービスは好評だった。毎年、広告代理店に依頼し、アイデアをいくつか出してもらう。一種に限らないわけは、たとえばサル恐怖症の人には刺激が強すぎ、べつなものにしなければならないからだ。それをテープにおさめ、親しげな声で電話にのせるのだ。
 もちろん、エイプリル・フールであることはすぐ説明する。友人にひっかけられた場合は不快さの残ることもあるが、電話でのこのサービスでは、だれの笑いものになることもないのだ。
 彼はテーブルについて朝食をとった。食べるものはきまっている。といって毎朝一定なのではなく、情報銀行のメニュー・サービスによって、ジュースの種類だの、コーヒーの産地、パンの形など、毎日少しずつ変化がついている。当人の性格にあった、好みにぴったりのバラエティーがつくのだ。マス・コミュニケーションとちがった、きめのこまかいサービス。
「おかげでわが社もまあまあ順調だ。また、わたしも独身でも不自由なく暮してゆけるというわけだ……」
 津田は自賛しながら食事をすませ、服を着て出勤した。そとは寒からず暑からず、まもなくやってくる新緑の季節の前ぶれの要素のようなものが、空気中にただよっていた。
 
 津田のつとめ先のジュピター情報銀行支店は都会の中央にあるわけではない。そんな必要はないのだ。郊外の林にかこまれた静かなところにあり、二つのビルがある。ひとつは支店であり、ひとつは研究所。この支店には付属研究所がくっついているのだ。すぐそばにあるほうが、実用に密着した開発がしやすい。
 津田は支店長であり、その研究所の管理事務の責任者をもかねていた。支店の人員はとくに多くもなかった。いうまでもなく記憶容量の大きなコンピューターがあり、それが主役だった。あとは電話応対の係で仕事はやっていけるのだ。
 支店長室に入り、タバコを一服してから、津田は社内をひとまわりした。日課なのだ。女子の電話応対係たちは、きびきびした口調でいそがしげに仕事をしている。
「はい。番号をどうぞ。ご用件は……。きのうなさったトランプの勝負の成績を記録なさりたいのですね。わかりました。では、どうぞ……」
 そう答えてから、それぞれの前にある盤に並ぶボタンを、指先で操作している。依頼者の用件の部分に接続したのだ。成績はそこに記録される。もちろん、いままでの記録もそこに残っている。だから利用者は、このところトランプでだれに負けつづけだったかも知ることができるのだ。
「もしもし、こちらはジュピター情報銀行でございます。お知らせをいたします……」
 と電話をかけている係もある。ダイヤルは自動的にまわされる。係としては、これだけ言って、ボタンを押せばいい。あとはテープが告げてくれる。その内容はさまざまだ。
〈予防注射の有効期限がそろそろ切れます。一週間以内に病院へお出かけ下さい〉
 というのもある。
〈明日はお子さまの誕生日でございます。カナリヤを買ってあげるとの約束をなさっております。お忘れにならぬよう。なお、ご帰宅途中にある小鳥の店の場所は……〉
 というのもある。つまりメモがわり、日記がわりなのだ。そして、それ以上の役目をはたしている。生きているメモなのだ。当人がすっかり忘れていても、必要な期日がくると、話しかけ注意してくれるのだ。忘れるということによる失敗を、人生から消してくれる。
 このジュピター情報銀行は、どちらかというと上流階級をお得意先に持っていた。よそより料金が高いかわり、すべてにゆきとどいているのだ。〈子供にカナリヤを買うこと〉と当人の声が再生されるだけでも用はたりるのだが、ここでは、ていねいなお知らせの口調で告げるのだ。コンピューターによりそのように変えられ、やさしい声となっている。なまなましい自分の声より、このほうがいいのだ。
 利用者はいろいろだ。若い女の声でこんなのもある。
「きのう、ボーイフレンドといっしょに食事をする約束だったけど、かぜをひいて熱が高いからと嘘をついて、すっぽかしちゃったの。これ覚えといて……」
 どこかの重役クラスらしい人の依頼もある。
「親類の者が金を借りにきたが、いまは株の値下りでそんな余裕はないとことわった。記録しておいてくれ」
 そして、つぎにその相手と会う前に、ちょっと電話でたしかめればいい。すっかり忘れていて、話が前とあわず恥をかいたりあわてたりすることもないのだ。優秀で忠実な個人秘書。むかしは大変なぜいたくだったが、いまは情報銀行に口座を持てば、だれにでもそれができるのだ。
 嘘をずっとつき通す人は、記憶がよくなければならないという|諺《ことわざ》があった。嘘はつつしんだほうがいいというのが本来の意味だが、コンピューターはそれを変えつつある。だれでも記憶力がよくなった時代。
 もっとも、それとちょうど逆の利用法だってあるのだ。
「さっき画商が、前からたのまれていたと、ラミンズという画家の作品を持ってきた。いくらなら買ってもいいと言ったのか、忘れてしまった。その時の記憶を出してくれ」
 他人の調子のいい言葉にだまされまいとの作戦なのだ。ごまかしを見抜くためなのだ。もっとひどいのもある。
「税務署から調査に来るそうだ。去年どんな言いわけをしたか忘れてしまった。その記録をたのむ……」
 それにもとづいて今年の言いわけをし、それもまた記録し、来年においても一貫した言いわけができるよう役立たせるのだ。税務署のほうでもコンピューターを使っているはずだ。いいかげんなその場のがれではだめなのだ。
 津田は情報銀行のそんな利用のされかたを見ると、妙な気分になる。虚々実々と形容すべきなのだろうが、ほとんど頭脳を使うことなくそれがなされるのだ。
 むりな言いわけを重ねすぎた利用者は、特別料金を払って、最後の言いわけの知恵を求めてくる。それに対しては、現状をくわしく聞き、最初から今までの嘘の言いわけをつなげて、コンピューターはもっともらしい事情の筋を考え出してくれるのだ。コンピューターは当人の手におえなくなったところに、それを越えるための嘘を製造してくれる。
 利用者はそれだけ神経を使わなくてすむというわけだが、それだけ金もかかるというしかけだ。しかし、使わなくてすんだ神経が、それ以上の金額に価するというのなら利益なのだろう。ここに情報銀行の価値がある。
 
 この種の情報銀行は、金銭をあつかう普通の銀行と機能の点でよく似ている。ただ品目が金銭でなく私的情報であるというだけのちがいだ。預けておいて、好きな時にいつでも出せる。また、金銭の銀行はガスや水道の料金などの払込みの代行をやってくれる。ここでもそれと同じことをやってくれるのだ。
 たとえば、新しくレジャー・クラブに入会する時、新しく新種の保険に加入しようという時、そんな場合に調査欄にいちいち同じような内容を記入しなければならない。そんなことの代行をやってくれるのだ。もちろん、加入者の了解をえた限界内でのことだ。それ以上のことに及ぶ時は、いちいち了解をとる。だが、いずれにせよ、むかしにくらべずいぶん手間がはぶけることになったのだ。
 時には他に口座が移動することもある。料金とサービスの関係で他の情報銀行にかわったり、住居の変更で他の支店に移ったりする。そんな場合も、電話線を利用し、そう時間もかけずにそっくり移せるのだ。
 口座の利用者は、それぞれコード番号を持っている。それが鍵であり、情報のもれるのを防いでいる。また、利用の仕方がいつもとちがってもたもたしたりしていると、いちおう逆探知がなされ、本人かどうかの確認をし、他人だったら警察へ通報されるのだ。
 電話応対係たちの室をひと回りした津田は、地下の室におりた。がっしりしたコンクリート造りで、そこはコンピューターと記憶装置の場所となっている。空気調節された清潔な静かさのなかで、かすかな機械音がささやくように響いている。津田はここに来るたびに、いつもこうつぶやいてしまうのだ。
「ここが人びとの脳の出張所なのだ……」
 人間は、うまれつきの脳だけではたりなくなってしまったのだ。いや、たりなくなったのは、脳の能力を使いこなそうという意欲のほうなのかもしれない。しかし、進化であることにはちがいない。こういう器官を新しくからだに付属させたのだから。
「心の出張所でもある。これが秘密というもの。ここが秘密の倉庫なのだ。人生における貴重なるもの。しかし、それぞれの当人は貴重きわまりないような気になっているが、内容はとるにたらない、くだらないものと言えるのではないだろうか」
 津田はそう言い、歩きまわる。秘密というと暗くしめった語感だが、ここは逆に明るく乾いている。その対比が異様だ。彼は装置が正常に動いているかどうかを確認するため、ポケットからイヤホーンを出し、穴にさしこんでみる。支店長として許された行為だ。一分間だけ聞くことができる。声がしていた。
〈いま、フロリダのゴルフ場に来ている。三年前にここでやった時の、わたしの記録をくわしく知りたい……〉
 一分間たつと、装置は自動的に傍受を切る。話の内容は、加入者が国際電話で問い合わせをしているようだった。それがだれなのかは、ここでは番号がわからず知りようがない。津田はイヤホーンを抜いた。
 静かな地下室にひとり。津田はここが好きだった。装置を眺めているだけで、いろいろなことが頭に浮かんでくるのだ。
 電話の普及はすばらしいものだ。フロリダだろうがどこだろうが、世界中どことも一瞬のうちに連絡し、空間なるものを消してしまう。距離がまるで無になるのだ。そして、コンピューター。これは時間というものを消してしまう。三年前だろうが一時間前だろうが、その記録の正確さにはなんの差もないのだ。こんな時代になるとは、むかしの人は想像もしなかったろうな。いや、いまだって完全にそれになれているといえるかどうか。
 空間と時間とを消し、人びとは自由にそれを利用している形ではある。しかし、ここにいる津田の目には、逆のようにも見えるのだ。人間たちがコンピューターのために働いているかのように。夏のアリがぞろぞろと、熱心に食物を巣に運ぶ。なにかそれを連想してしまう。アリたちは、なぜそうするのか自分でわかっているのだろうか。人間のほうはどうなのだろう。
「アリは食物を運び、人間は秘密を運ぶか……」
 彼はつぶやき、名文句だなと自分で喜んだ。彼の思考は、秘密ということに飛んだ。いったい、秘密とはなんなのだろう。人間に特有な現象のようだが、なぜ秘密がこうも大問題なのだろう。だれもがかくすから知りたくなるのだろうか。だれもが知りたがるから、かくしてみたくなるのだろうか。人間が人間である特徴は、秘密で構成されているという点だろうか。
「まったく、ふしぎなものだなあ、人間という生物は……」
 津田は思いにふけった。このようにとりとめもないことを考える性格が、妻の趣味と一致せず、離婚するはめになったのだ。しかし、いまは好きなようにそれにひたることができる。
 そもそも、秘密なるものの起源はどこにあるのだろうか、とも考えてみる。原始時代にさかのぼるのだろうなあ。いや、もっと前なのかもしれない。食料をさがして野山をうろついていたころなんだろうなあ。食料を求めるのは楽でなく、しかもそれは有限だ。その所在を他に知らせることは自己の損失。餓死につながりかねない。そんなことから、自己、家族、部族と何重もの秘密がうまれてきたのではないだろうか。
 有限なものをめぐって争うとなると、その競争相手を殺さなければならない。さもなければ所在を秘密にするかだ。どちらをえらぶかの岐路に立ち、人類は殺しでなく秘密のほうをえらんだ。これが文明のはじまりじゃないのだろうか。殺しは強さだけできまる。原理は弱肉強食だけだ。しかし、秘密となると、強さではない。くふうがいるのだ。最初はちょっとしたくふうですむが……。
 火や道具の発明なんかより、秘密ということの発明のほうが大問題だったろうな。だから旧約聖書でも、人類最初の事件はエデンの園で禁断の果実を食うことなのだ。神に対して秘密を持ったという象徴なのだろう。
 それに、ノアの箱舟の物語。これもまた秘密の重要さだ。神の予告を受け、ノアとその家族は動物とともに箱舟にのり、洪水をのがれることができた。もし秘密をまもらなかったら、混乱状態におちいって、生き残ることはできなかったろう。
 秘密のおかげで生き残ったのだ。われわれはみな、そのノアの子孫。秘密という遺産をうけつぎ、それぞれの心のなかで大切に育て、これまでに発展してきたのだ。そのあげく、いまや秘密は、その容器である人間よりも大きくなり、貴重になりつつある。ここにあるコンピューター装置となって。
 津田はつぶやくのだった。
「変なものだなあ。どうってこともなく、くだらないものなのに。まったく、変なものだなあ……」
 
 内部をひとまわりし、津田は支店長室にもどった。しばらくすると、電話がまわされてきた。特別な口座の持主からだ。銀行にとって大切な得意先のお客で、そのような人はコード番号のあとにAの文字がついている。津田はていねいな口調であいさつした。
「まいどありがとうございます。で、どんなご用でございましょう」
 女の人からの依頼だった。
「じつはね、きょうの夜、あるパーティに招待されているの。でも、その人とは初対面なのよ。そして、今後ずっとおつきあいしなければならない大事な人なので、失敗したくないのよ。お願いだから、その人の性格を教えてもらいたいの。その人はね、第二住宅地区の……」
 住所と姓名をつげてきた。津田はもったいをつけて言う。
「ごもっともなことでございます。しかし、そのようなことは、ちょっと……」
「あたし、おたくとは昔からの取引なのよ。よその情報銀行から口座を移したらと勧誘されてるけど、ことわっているのよ。特別料金はお払いするわ。なんとか便宜をはかってよ……」
「では、特別になんとかいたしましょう。少しお待ち下さい……」
 津田はボタンを押し、操作した。支店長室にある操作板は、支店長の判断によってのみ動かせるものだ。さほど時間はかからない。その指示された相手の人物の口座につないだ。調査票などに公表不可能な部分を知らせる。すなわち、プラス・アルファだ。
 といっても、当人の秘密の全部をあきらかにするわけではない。あまりに大量で雑然としていて、知らされたほうも持てあましてしまう。いままで口座の記憶装置に流入したデータをもとにコンピューターが分析した性格傾向のおおよそを教えてあげるのだ。
「どうもありがとう。とても参考になったわ」
「お役に立てばさいわいでございます。どうぞ、そのかたと円滑なご交際をなさいますよう。しかし、この件は内密に」
「もちろんですわ」
 電話は終わった。こんな仕事のたびに、津田は考えるのだ。これはいけないことなのだろうかと。秘密データによる性格分析。それを公表するのはいいことではないか。悪いとすれば、なぜ悪いのか。悪いときめつける理由が思い当たらないのだ。
 このサービスによって、人と人との交際がスムースにゆく。へたをすれば初対面で、相手のいやなことを不用意に失言し、あとあとまで、時によっては一生とりかえしのつかない後悔をも残しかねない。そんな不幸を、あらかじめ防止してあげるのだ。
 正か不正かの疑問は残るが、津田はそれを割切ることができる。なにしろ、これはお客さまの要求なのだ。いいことなのだ。
 べつの支店、あるいは他の情報銀行から、この種のことの問い合わせがくることもある。ここに口座を持っている人に関してだ。それにもなるべく応じてあげるようにしている。個人の具体的な秘密ではなく、性格というパターン化した情報なのだ。個人の表情であり、口調であり身ぶりであり、つきあって時間をかければわかることではないか。その手間を短縮させる手伝いをしてあげるだけだ。これこそサービス、他のいわゆるサービスとちがいはない。お客さまのためであり、いい結果を提供しているのだ。
 金銭をあつかう銀行からの問い合わせもある。
「当銀行のお客のうち賭博好きの性格の者をマークしておきたいのです。注意をしておかないと、将来、当行の損害をひきおこしかねません。それは他のお得意さまたちへよけいな損害をおかけすることにもなるわけです。よろしくご配慮のほどを……」
 そんなのに津田はこう答える。
「ご事情はよくわかります。しかし、ギブ・アンド・テイク。こちらのお手伝いもお願いしたい。こちらに口座をお持ちのお客さまのうち、金銭的に不安定なかたがあったら、マークしておきたいのです。料金の支払い不能者が出ては困りますから」
「いいでしょう。それぞれの企業のため、とりもなおさずお客さまのためでございます。おたがいにそのためにつくしましょう」
 情報の交換がなされる。コンピューター間の連絡により、短時間ですんでしまうのだ。安全と有利とを求める各人の要求の集積。それが具体的な動きとなるのは、金銭の場合も個人情報の場合も同様のようだ。
 仕事のあいま、津田はひまになると、ひそかな楽しみにふける。別れた妻の個人情報をのぞくことだ。彼女の性格分析は、離婚してから変わりつつある。〈金銭とか宝石とか、現実的なものに興味を示す〉だったのが、最近では〈現実的なものにしか興味を示さず、それにいちじるしく執着する〉となってきた。傾向がひどくなっているのだ。離婚してよかったと、彼は心のなかで喜ぶのだ。
 彼は支店長の権限で、別れた妻のコード番号をも知っている。だから、さらに深くのぞくこともできるのだ。彼女の秘密の領域。そこには浅薄で、たあいないものばかりがおさまっている。こんなものがなんで秘密なのかわからない。浅薄だから秘密にしなければならないのだろうなと、彼は思う。
 
 午後になると、津田のところに、中央の本社から会議の決定事項のまわってくることが多い。電話が鳴り、声が言った。
「付属研究所への新製品開発の件だ。ぜひ、いいものを作ってもらいたい。それから、前に指示した開発の件を促進してもらいたい」
 感情のない男の声だ。人工の声を使っているのだなと津田は思う。彼は言った。
「はい、わかりました。テレタイプにてお願いいたします」
 机のそばのテレタイプが動きはじめた。本社のコード番号、書式はととのっている。たちまちのうちに、書類がそこに出現した。
 津田はそれを持って、付属研究所の建物に行く。主任技師に会い、まず促進のほうの用件を話した。
「前からの開発計画はどうなった」
「はい、あの嘘発見機つきの電話機のことですね。ほぼ試作品が完成しました。これです」
 主任技師は電話機を持ってきた。受話器のにぎりの部分に、美しい色彩のものが巻きついている。津田は聞いた。
「どういう作用をするのだ」
「このにぎりの部分。手のひらの汗の分泌量が、そこで測定されるわけです。汗の出方の変化は、電流の変化になおされ、当人に知られることなくこっちへ伝えられるのです。しかし見たところはすべりどめの如く、美しい飾りの如くで、普及を助けるでしょう。ここに苦心があるのです」
「うまい考案だな」
「汗の出るぐあいと、その時の会話とにより、コンピューターの分析で嘘の可能性の度合が判明できます。かなりの成果をあげるでしょう。しかし、なぜこんなものを……」
 と主任技師はふしぎがった。
「わが情報銀行の内容充実、世の中からのより正確な情報蒐集のためだろう。つまり、お客へのより高度なサービスということになる。そうそう、それから上部からの新しい指示があった。これだよ……」
 津田はいま電送されてきた書類を示した。主任技師は眺めながら顔をしかめる。
「驚きましたねえ。これは巧妙な盗聴装置です」
「どういうことなのだ」
「家庭用の電話機の受話器を、特殊電流による遠隔操作ではずすのです。見た目には気づかれない程度に、そっと持ちあげるだけですがね。しかし、それによって当人にはわからないうちに、そばでの会話がキャッチされてしまうのです。これがおかれると、家庭内の実情がそとにもれるわけです」
「やはり、わが情報銀行のお客さまのためだろう」
「いいんでしょうかね。ゆきすぎのように思えます。法律にひっかかるとことです」
「それもそうだな。念のため、本社に問い合わせてたしかめてみよう」
「お願いします」
 技師の心配ももっともと思い、津田は室にもどり、本社への連絡をしようとした。
 その時、電話がかかってきた。さっきの単調な男の声だ。
「さっきの指示の件は、進めてもらえるだろうな」
「はい、しかし、どうも気が進みません。あんなものの開発を進めていいのでしょうか。いったい、本社での本当の決定なのですか。あなたはどなたです」
「文句を言うな。そのままやればいいのだ。従わないとお前に不利になるぞ。お前の個人情報についての、感心しない部分があかるみにでる。別れた奥さんの情報をひそかにのぞき、楽しんでいたこともな……」
「ああ……」
 津田は驚きのうめき声を出した。別れた妻の秘密をのぞき、そのうちのいくつかを自分の情報メモに移しておいたのだ。その弱味をだれかにつかまれてしまったらしい。それに、空想愛好の傾向がある性格のことを人びとに知られては、会社づとめとして困ることになる。
「どうだ。文句をいったり、こちらがだれかなど質問をするな」
「はい……」
 津田は青ざめた。自分の心のなかに、なにものかが土足でふみこんできたような感じがした。
 その動揺につけこみ、相手の声は言った。
「それから、お客のコード番号と姓名との確認をやりたい。すぐ用意をしてくれ」
「しかし、それは……」
「お前の責任には絶対にならぬようにやるから、心配するな。いやなら……」
「わかりました」
 複雑なボタンの操作で、それはたちまちのうちにどこかへと伝達された。津田は思う。この相手は、おれの秘密を知っている。個人情報をのぞいたにちがいない。
 目に見えぬ相手への怒りが、彼にやけをおこさせた。
 それでも、一瞬の反省はある。しかし、この指令を拒否できたかとなると、それは不可能だったのだ。自己の秘密の公表の拡大は、なんとかして防止せねばならぬ。それがなされたら、自分の存在価値がない、死体同然になってしまうと思えたのだ。規則無視の罰よりも大切なことだ。
 さっきは他人の秘密について客観的な考えができた津田も、ことが自分におよぶと、平然とはしていられなかった。矛盾だ。
 しかし、彼はこんなふうにも思った。秘密を守りたがるのは本能なのだ、理屈じゃどうしようもないことなのだと。
 津田はまた研究所に行った。
「本社では文句をいうなとさ」
 すると、技師もさっきと一変して、すなおに答えた。
「やりましょう」
 そのようすから、この技師もあの声にやられたのかもしれないように思えた。どこでなにが動いているのだろう。津田には見当もつかなかった。そして、そんなことより、彼にとっては帰宅してからの、ひとりの時間のほうが大切なのだった。ひとりで勝手なもの思いにふけりたいのだ。
 彼は退社時間になると、四階の室に帰宅し、もの思いをたのしんだ。四月のけだるい夕暮を窓のそとに眺めながら……。
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